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校舎の屋上から北を見た様子 合成パノラマ |
藤井寺南小学校の正門に面した道路をはさんで、北側のすぐ向かいには、市立藤井寺南幼稚園、新池、市立
生涯学習センター「アイセル・シュラホール」があります。
藤井寺市立藤井寺南幼稚園
藤井寺市立の各小学校には、2020年3月まではどこにも併設の幼稚園がありました。藤井寺南小学校・園の校
区は南北に長くて校区の北の端の方に学校・園があるので、南の地区の園児たちの通園距離が長く時間がかかり
ます。そのため、この幼稚園には南部地区の通園児のために分園が設置されていました。野中(のなか)分園といい、
野中宮山古墳内の一角にありました。ここには、校区の南側の半分近くを占める野中・青山地区の園児が通園す
る分園でした。これらの地区は以前は田畑が比較的多く残っている地域でしたが、近年どんどん宅地化が進んで
分園に通う園児の数も大きく増え、園児数が減っている本園を越えるほどになりました。しかし、保育所を利用
する家庭の増加とともに、市立幼稚園の入園者数は減少する一方で、とうとう2020年3月末に3ヵ所の園が閉園
となりました。藤井寺西幼稚園・道明寺東幼稚園とともに、野中分園も閉園となってしまいました。
新 池
新池は、上から見ると変わった形をしていますが、以前はもっと大きな池でした。アイセル・シュラホールの
建設用地にするために半分近くが埋め立てられ、今のような形になりました。元々は農業用のため池でしたが、
農地は大幅に減少してきたため、埋め立てに合わせて護岸整備や底の掘り下げ工事等が行われ、降雨時の調整池
の役目を維持しています。大きな雨の時には、上流側から流入する雨水で新池の水位はどんどん上がり、一定以
上の水位を超えると自動的に雨水下水道に流出するようになっています。
かつては新池の南側にも二つの大きな池がありました。三つの池を総称して、この場所は「三ツ池(みついけ)」と
呼ばれていました。藤井寺南小学校の敷地全体も、「米口池(こめぐちいけ)」という一つの池でした。その西側には「升
池(ますいけ)」がありましたが、ここは住宅地となっています。学校創立5年目の1964年(39年)10月10日に、新校舎
の第1期工事が竣工しますが、これに向けて米口池と升池は埋め立てられました。池の跡には新しい校舎と住宅
街が登場したのです。ちなみに、竣工日の1964年10月10日は東京オリンピックの開会式の日でした。
市立生涯学習センター「アイセル・シュラホール」
アイセル・シュラホールは生涯学習センターの愛称として付けられた名前です。シュラホールの「シュラ」は、
市内にある古墳の濠の底から発見された古代の木ぞり「修羅(しゅら)」にちなんでいます。シュラホールは建物の形
がたいへん特徴的です。遠くから見ると、街の中に船が浮かんでいるような感じです。建物の東側部分は市内の
遺跡から発掘された埴輪の古代船の前部を、西側部分は修羅の後部を模してデザインされています。特徴ある建
物なので、藤井寺南小学校への道案内をする時に、見つけやすい目印として大いに役立っています。
葛井寺
学校からシュラホールの横を通って北へ向かうと、「葛井寺(ふじいでら)」があります。葛井寺は、西国三十三所観
音霊場の第五番札所としてよく知られており、近くの人々に加えて、遠くからの巡礼参拝の人々でも賑わってい
ます。また、葛井寺は藤井寺市の地名の元となった寺で、昔この寺を中心として旧藤井寺村ができてきました。
昔から地域の人々に親しまれてきたお寺ですが、「ふじいでら」と言うと地名や駅名と紛らわしいので、地元の
人達は「かんのんさん」と親しみを込めて呼んでいます。毎年8月9日の「千日参り」では、境内にびっしりと
夜店が並び、たいへんな数の人々で賑わいます。
辛國神社
葛井寺の西の方には「辛國(からくに)神社」があります。名前でわかるように渡来系氏族に関わりの深い神社で、
延喜式神名帳に記載されている「式内社(しきないしゃ)」の一つで、由緒ある神社です。うっそうと繁った境内の森は
「大阪みどりの百選」にも選ばれていて、一番奥にある拝殿までの参道を歩いていると、何か神秘的なものを感
じます。その静かな境内も、毎年7月16・17日の夏祭りには多くの夜店が並び、たくさんの人で賑わいます。
藤井寺市立藤井寺西小学校
辛國神社の南側に道路をはさんで隣接しているのが、藤井寺西小学校です。1970年(昭和45年)、藤井寺南小学
校から分離して新設された、藤井寺市立の5番目の小学校です。藤井寺南小学校とは“きょうだい学校”になる
わけです。
藤井寺駅
葛井寺や辛國神社に面した道路を北へ進んで商店街を通り抜けると、やがて藤井寺駅に至ります。大阪阿部野
橋(あべのばし)駅を起点とする近畿日本鉄道・南大阪線の駅です。各駅停車の普通電車と準急電車しか止まりません
が、1日の乗降客数は南大阪線では大阪阿部野橋駅に次いで2番目です。藤井寺市が住宅都市化して人口が急増
したことに加え、隣接する羽曳野(はびきの)市の住宅地からの利用者もたいへん多いのです。準急電車に乗れば、阿
部野橋駅までは15分で行くことができます。
四天王寺学園の小学校と中・高校(近鉄藤井寺球場跡地)
藤井寺駅前の道を西へ300mほど行くと、四天王寺小学校・四天王寺東中学校・同東高等学校があります。学校
法人・四天王寺学園が運営する学校です。
これらの学校の場所には、かつて近鉄が経営する「藤井寺球場」がありました。ここは、大阪ドーム(現・京セ
ラドーム大阪)が出来るまでは、プロ野球球団・大阪近鉄バファローズの本拠地球場でした。プロ野球1軍公式戦
は、1999年(平成11年)10月7日の最終戦が最後となり、翌シーズンからはドームへ移りました。その後も球団の
練習や2軍の試合、高校野球などに使用されていましたが、残念ながら、2005年1月で閉鎖となり、翌2006年春
には解体撤去工事が行われて、姿を消してしまいました。跡地の大部分を取得した四天王寺学園がここに進出し
学校を新設しました。ちなみに、となりの羽曳野市内にある四天王寺大学へ行く定期バスも、多くが藤井寺駅前
から発着します。
昭和3年にできて以来、長く藤井寺や周辺の地域の人々に親しまれてきた地域のシンボル的存在であった藤井
寺球場は、惜しまれつつその姿を消していきました。プロ野球の開催地として「藤井寺」の名前を全国に広めて
くれた藤井寺球場の消滅は、藤井寺市民にとっては、たいへんさびしい出来事でした。 |
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校舎の屋上から東を見た様子 合成パノラマ |
幹線道路
藤井寺南小学校の東の方には、府道186号・大阪羽曳野線、国道170号(大阪外環状線)が南北に通っています。
この2本の幹線道路は、校区の真ん中辺りの野中交差点で斜めに交差しますが、ここではさらにもう1本の幹線
道路である府道31号・堺羽曳野線が東西に交わります。校区の真ん中で国道・府道の幹線道路が3本も交差して
いるという様子は、市内の他の小学校区ではありません。新しい道路が開通するたびに、地域内の自動車交通量
は増え続け、幹線横断箇所も多くなって、藤井寺南小学校の児童たちにとっては交通安全は大きな課題です。
校区の北東側には、西名阪自動車道が高架で藤井寺市内を斜めに通り抜けています。
大型前方後円墳−世界遺産にも登録
藤井寺市内には多くの古墳があり、高い場所から見渡すと、あちこちで小山のような大型前方後円墳が目に入
ります。となりの羽曳野市にも古墳が多く、藤井寺市内と合わせて「古市古墳群」と呼ばれています。藤井寺南
小学校の校区内にも多くの古墳がありますが、学校の東側をながめると校区外にある大型古墳が目に入ります。
中でも、ひときわ目立つのが、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)です。古市古墳群では最も大きな古墳
であり、全国で2番目に大きい古墳です。藤井寺南小学校の敷地面積の14,5倍はあろうかという大きさです。
さらに、その北側に連なるように、大鳥塚古墳、古室山(こむろやま)古墳 、仲津山古墳(仲津姫皇后陵)が見えていま
す。誉田御廟山古墳の手前(西側)には、方墳の東山古墳が校区の東端で市の境に接しています。
古市古墳群は堺市にある百舌鳥古墳群とともに、「百舌鳥・古市古墳群」として2019年7月にユネスコの世界
遺産委員会で世界文化遺産として登録が決定されました。藤井寺南小学校の校区には、世界文化遺産の構成資産
となる5基の古墳が存在しています。これらを含め、校区には11基の現存古墳があります。
校区の北寄りには、UR都市機構のサンヴァリエ藤井寺が見えます。ここには、かつて住宅公団・藤井寺団地
がありました。都市機構が各地で進めている団地の建て替え高層化事業の一環で、ここも数年前に姿を変えまし
た。藤井寺団地は地区名でもあったのですが、敷地の半分位が民有地となったため、現在は「さくら町」と改名
されています。
南寄りに目を移すと、遙か東方に二上山(にじょうざん)が見えます。万葉の時代には「ふたかみやま」と呼ばれ、歌に
詠まれています。北側の雄岳(おだけ)と南側の雌岳(めだけ)がつくる二こぶの姿が特徴の山です。山頂が大阪府と奈良県
の境界となっており、昔から大和の国と河内の国の境を示すよい目印となってきました。雌岳の南側の麓には最
古の官道と言われる竹内(たけのうち)街道が通っています。 |
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校舎の屋上から南を見た様子 合成パノラマ |
藤井寺市の地形は全体がほぼ平坦な土地ですが、南から下る羽曳野(はびきの)丘陵の北端に位置しているので、
南側の標高が少しが高くなっています。さらに南側の羽曳野市域はもっと高く、そのため学校から南を見ると、
かなり遠方の建物なども見えています。
南側に多く見える古墳
学校が校区の北端寄りにあるので、校区の南側に多く存在する古墳もいろいろと見えます。東寄りには校区内
の野中宮山古墳、はざみ山古墳が見えます。ずっと 南寄りには、羽曳野市域にある墓山古墳、前の山古墳(日本
武尊(やまとたけるのみこと)陵) 、白髪山(しらがやま)古墳(清寧天皇陵)が見えます。西寄りには峯ヶ塚(みねがづか)古墳もあります。
それらの手前(北側)には、校区内の青山古墳(円墳)、稲荷塚(いなりづか)古墳、
ボケ山古墳(仁賢天皇陵)が見えてい
ます。そのほかにも校区の南側には、浄元寺山(じょうがんじやま)古墳(方墳)、 野中古墳(方墳)があります。
校区の最も南の方には、ボケ山古墳に隣接して上田池(かみのたいけ)、下田池(しものたいけ)があります。昔から校区内の
水田地帯にとって大切な水源の役割を担ってきました。形を見ると、二つの池で妙に方向のそろった直線部分の
あることがわかります。この部分は、古墳時代に造られたと推測されている古代の運河、古市大溝(ふるいちおおみぞ)が
通っていた跡なのです。数年前に、二つの池の堤防や周辺が整えられて、遊歩道もできました。
多くの公共施設
羽曳野市域も含め、南の方には公共施設が多く見えます。校区の最南端近くには、大阪南消防組合大阪南消防局
が、その南側には羽曳野市の生活文化情報センター「LICはびきの」が見えます。西寄りには、大阪府立はびき
の医療センター、大阪府立大学羽曳野キャンパスが見えます。中でも、医療センターは羽曳野丘陵の一番高い辺り
にあるので、いろいろな所からよく見えます。
その他の公共施設として、校区内には、大阪広域水道企業団美陵(みささぎ)ポンプ場、市営の野中配水場T・U、藤
井寺郵便局があります。また、校区にすぐ隣接して羽曳野警察署があります。藤井寺市もこの警察署の管内にな
っています。また、警察署のすぐとなりには羽曳野市役所もあります。
学校の屋上からは、遙か南東の方向に金剛山(こんごうざん)や葛城山(かつらぎさん)が連なってよく見えています。 金剛山
地と呼ばれる山地で、金剛山は大阪府内で一番高い山です。山頂である三角点は奈良県側の御所(ごせ)市にあり、
標高が1,125mあります。葛城山頂は府県境にあって、金剛山地は大阪府東南部での奈良県との境でもあります。
学校の南側地区は、かつては市内でも最も田畑の多い地域の一つでしたが、最近はすっかり住宅地化が進みま
した。田畑もどんどん減ってきて、残りわずかという感じです。しかし、校区内外にいくつもの大型古墳があり、
この辺りではまだ緑の多い地域です。古墳の森があるので、学校の木々にも野鳥がよくやって来ます。 |
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校舎の屋上から西を見た様子 合成パノラマ |
学校のすぐ西側は、学校用地となった米口池と同じ時に宅地化された升池の跡地です。今は住宅で埋まってい
ます。その住宅街越しに大きく見えているのが、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)です。墳丘長では、古市古墳群
の中で3番目の大きさです。藤井寺西小学校の校区にありますが、藤井寺南小学校から近くにあるので、見た目
には一番大きく感じます。
北寄りの方には、藤井寺球場の跡地にできた四天王寺小学校・四天王寺東中学校・四天王寺東高等学校と大型
マンションが見えています。 |