【 | 近鉄南大阪線・藤井寺駅から南東へ約270m 徒歩約4分(四脚門まで) | 】 |
葛井寺の歴史 葛井寺は、山号を紫雲山(しうんざん)といいます。寺伝によると、葛井寺は 奈良時代、聖武天皇によって葛井連(ふじいのむらじ)の邸宅地に建立され、春日 仏師に命じて千手千眼観世音菩薩を造らせ、神亀2年(725年)に僧行基が 開眼法要を行ったとされています。 しかし、発掘調査の結果では、7世紀中頃までさかのぼる瓦が出土し ており、葛井氏の前身の白猪(しらい)氏によって建立された氏寺(うじでら)だと 考えられます。白猪氏は百済(くだら)王族の辰孫(しんそん)王の子孫で、船(ふね) 氏、津氏と同族といわれています。白猪氏がこの地に移住して来たのは 6世紀後半とみられ、奈良時代に入ると、白猪氏は官僚の道を進み、養老 4年(720年)には一族の有力者が葛井連の氏名を賜わりました。一般的 には、寺の名前から葛井氏の氏寺として創建されたとされています。 |
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葛井寺山門(南大門) |
1096年に大和の藤井安基が伽藍の大修理に尽力したことから、「藤井寺」ともいうようになり、地名として「藤 井寺」が残ったといわれています。 平安時代以降は、西国三十三所観音霊場の第五番札所として、多くの庶民の信仰を集めてきました。戦国時代の 兵火による焼失や大地震で伽藍が荒廃しますが、多くの信者の尽力によって修復され、今日に至っています。現在も 西国巡礼の参拝客が団体でよく訪れます。 江戸時代の終わり近く、享和元年(1801年)に刊行された『河内名所圖會(図会)』には、「丹南郡」の項に次のよう に紹介されています。「紫雲山(しうんざん)葛井寺三宝院 葛井寺村にあり。いにしへは古子(ふるな)山といふ。一名、剛琳 寺。真言宗。…(中略)…。西国巡礼三十三所の中(うち)、第五番の札所なり。(以下略)」 古くは「紫雲山剛琳寺(しうんざん・ごうりんじ)」と号していたとされ、明治15年3月に作成された『河内国丹南郡藤井寺村 誌』の「寺」の項には、「剛琳寺 東西二十七間 南北五十八間三尺 古義真言宗西京仁和寺末派ナリ…」と紹介され、 続いて寺の由来も詳しく書かれています。また、明治25年作成の『明治廿四年 大阪府石川・錦部・八上・古市・安 宿部・丹南・志紀郡役所統計書』でも、志紀郡・丹南郡に関わる「著名ノ寺院」として、「剛琳寺真言宗…」と記載 されています。このことから、少なくとも明治時代の中頃では、「剛琳寺」と呼ばれるのが普通であったことがわか ります。「葛井寺」で固定化したのは意外と新しい時期のようです。 |
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国宝と重要文化財 本尊の千手観音像は、脱活乾漆(だっかつかんしつ)造りで、大阪府下で唯一の天 平時代の仏像として、国宝に指定されています。 商店街に面し西門として位置する「四脚門」は、1601年に豊臣秀頼が南大 門として建てたといわれており、江戸時代中ごろに西門として移されました。 桃山時代の貴重な建築物として、重要文化財に指定されています。 山号「紫雲山」のもととなった紫雲石灯籠は、聖武天皇の寄贈と伝えられ、 大阪府指定文化財となっています。痛みが激しいため現在境内には欠損箇所 |
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藤棚と本堂(西側より) | ||
までそっくりに造られたレプリカが置かれており、実物は本堂裏の庭園に置かれています。 国宝「千手観音菩薩座像」(せんじゅかんのんぼさつざぞう) 8世紀中頃(奈良時代)の製作と推定されるこの仏像は、脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)の技法によって造られ、仏像本体 の像高が144.2p、台座を含めた総高が246.0pあります。 この千手観音は、正しくは「十一面千手千眼観世自在菩薩(じゅういちめんせんじゅせんげんかんぜじざいぼさつ)」といい、六観音の一つ に数えられます。千の眼をもって人々を導き、千の手で人々を救う慈悲をを示すとされています。実際に千の手を持 つ千手観音像はきわめて少なく、現存するのは奈良市・唐招提寺と京都府京田辺市・寿宝寺(じゅほうじ)、そして葛井寺の三 カ所だけです。ただし、唐招提寺の千手観音像に現存している手は953本で、寿宝寺の場合も正確には958本と言わ れており、実際に学術的調査によって1,000本以上の手があることが確認されているのは、葛井寺だけということにな ります。いずれにしても、この3体の千手観音像は1,000本クラスの手を持つ立派なもので、「千手観音像の三大傑作」 とされています。 この千手観音は、小脇手だけで1,001本、中脇手40本、合掌する大手2本、全部で 1,043本の手を持っています。脇手 の全ての手のひらには、一つずつの眼が彫られています。その理知的な表情と写実的な表現は、唐招提寺の千手観音 像と並んで、たいへんすぐれた千手観音菩薩像と讃えられています。 藤井寺市の市史編さん事業の一環として、平成2(1990)年には、この千手観音像の調査が行われました。本格的な 学術調査が行われ、1,001本の小脇手を全て外してX線撮影をするなど、多くの成果が得られました。 |
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親しまれているお寺 現在の南大門から四脚門にぬける境内は、周辺地域の人々の通勤や買い物 の近道としても利用されています。「ふじいでら」という呼び名が、寺名で も地名でもあり、また駅名もあるのでまぎらわしく、地元の人々は葛井寺の ことは親しみを込めて「観音さん」と呼んでいます。また、境内には休憩所も あり、子供から老人まで、遊び場や散歩場としてよく利用されています。 年中行事の中でも8月9日の「千日参り」は大変なにぎわいで、境内には びっしりと夜店がたち並び、歩くのも難しいほどの人がお参りします。 |
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重要文化財・四脚門(西門) | ||
村落の形成と昔からの街道 四脚門を出ると、寺の西側に通っている街道に出ます。この街道は、北へ進むと平野(現大阪市平野)を通って大坂 の町へつながりおり、「大坂道」と呼ばれていました。南に少し進むと古代の官道として知られる竹内(たけのうち)街道 につながっていきます。この道を東に進めば奈良・當麻(たいま)へと向かい、西へ進めば堺の町へとつながって行きます。 昔からこの街道筋が葛井寺のある藤井寺村の中心でした。というより、街道に沿って村の集落が発達してきたとい うのが順序でしょう。北側に隣接していた岡村も、この街道に沿って集落が発達してきました。岡村集落の中では長 尾街道とも交差し、その周辺が村の中心として発展してきました。さらに北へ進むと小山村集落の中心を通りぬけ、 もうひとつ北側の津堂村集落へと入っていきます。 このような街道と集落の発達の経過は、そのまま近代以降の地域の形成にも引き継がれていきました。明治22年か らこの地域の6カ村の合併が始まり、明治期の後半には二つの大きな村が形成されていました。街道沿いの南側3カ 村が藤井寺村、北側の3カ村が小山村となったのです。葛井寺は、この藤井寺村の真ん中辺りに位置することにな りました。もともと、葛井寺の周辺一帯が元の小さい藤井寺村だったのです。そして、大正4年にはこれら二つの村 も合併して、さらに大きな「藤井寺村」ができました。自治体の規模が大きくなっていくにつれて、役場や郵便局、 巡査派出所、巡査駐在所などの公共施設や学校が新たに設置されていくことになります。「藤井寺村」では、この街 道沿いやその近く(特に長尾街道との交差点周辺)に、そういった公共施設や学校が造られていきました。 街道と駅と商店街 この「藤井寺村」にも、大正時代の終わり頃から転機が訪れます。1922年(大正11年)4月に、大阪鉄道の道明寺 (どうみょうじ)駅−布忍(ぬのせ)駅間が開通し、その間にある藤井寺村では藤井寺駅が開業しました。翌大正12年4月には 布忍駅−大阪天王寺駅(後大阪阿部野橋駅)間が開通して、同時に道明寺駅−大阪天王寺駅間が電化されました。これ で、大阪天王寺駅−古市駅−河内長野駅という、現在の近鉄南大阪線・阿部野橋−古市間と長野線が一本につながっ たのです。さらに1929年(昭和4年)には、古市駅−久米寺(現橿原神宮前)駅間が延伸され、久米寺駅からは吉野鉄道 (現近畿日本鉄道・吉野線)に接続して吉野までの直通運転が開始されました。これにより、阿部野橋駅と橿原神宮前 駅をつなぐ今日の近鉄南大阪線が完成しました。 これらの鉄道路線の延伸と藤井寺駅の開業は、藤井寺村の様子にも大きな影響を与えることになりました。当時の 藤井寺村の玄関口として、また、西国三十三カ所観音霊場第五番・葛井寺の参拝入口として、藤井寺駅は遠方から の来訪者を迎える重要な窓口となったのです。また、当時の大阪鉄道は「藤井寺経営地」という沿線開発事業に取り 組み、昭和3年には「藤井寺球場」を、翌4年には「藤井寺教材園」を開業しました。さらに、この地域での住宅開 発にも取り組んでいます。 藤井寺駅と周辺での事業展開の登場によって、藤井寺村はにわかに変化の兆しを見せ始めます。農村地帯という藤 井寺村の基本型は保ちつつ、大阪市内への電車通勤圏となったことで、近代産業を発展させて一大商工業都市となっ ていた大阪市への勤労者の供給地ともなっていきました。同時に、寺院や天皇陵への参拝者、球場や教材園への来訪 客を迎えるという、今日のミニ観光地のような様相が誕生しました。駅を中心として人の流れができると、そこには その人々を対象として商店が展開することになります。 鉄道は、藤井寺村の真ん中を南北に通っていた街道を東西に横切って開通しました。そして、藤井寺駅はその踏切 の西側に設けられました。もともと村のメインストリートであった街道には、駅の近くを中心に商店が並んでいくこ ととなったのです。それらは後に商店街を形成していくことになります。そして、この街道部分は、藤井駅で降りて 葛井寺へお参りする人々の参道となっていったのです。 商店街と葛井寺 現在、葛井寺の西側に接して一本の商店街が通っています。かつての藤井寺村の中心であった街道の一部です。葛 井寺の西門に面していることから、古くは「西門筋(さいもんすじ)商店街」と言っていましたが、現在は「藤井寺一番街」と 称されています。近鉄線と交差する踏切から南側へ200mほど延びる商店街です。一種の門前町とも言えるでしょう が、実はこの商店街は、戦後しばらくまではもっと小規模だったようです。 藤井寺市出身で現在長野県安曇野市在住の、元中学校教師の方が運営するサイト「野の学舎」に掲載の評論、「[日 本社会]子どもたちの育つ環境を奪ってきた文明」の中に、この商店街の変化と葛井寺に関連した部分があったので 紹介します。 ( ※1〜13は本ページ制作者による補足です。) |
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…(前略)… ぼくの家は町の南のはずれにあり、南北に伸びる町を貫く旧街道の真ん中に学校(※1)はある。 毎日の登校に、子どもの足で30分かかった道は狭く、うねうねと曲がりくねり、… …(中略)… 中学三年生のころ(※2)、その道路の一部に一大変化が起こった。 街道沿いに「観音さん」と呼ばれていた西国札所の大きな寺(※3)があり、ある日、とつぜん寺の境内にあ るイチョウの大木が数本切り倒された。その木は、寺の石垣の内側に天に向かってそびえたち、秋になると 道路にまで伸ばしていた枝から色づいた黄葉をはらはらと落とした。道路は黄葉で埋まり、その上を歩いて いくと季節を感じる心はしーんと澄みきり、心の楽器の弦の音が聞こえるようだった。それが伐採された。 なぜだ、なぜ? 子ども心に、これは理解できないことだと思う。 続いて、大きな寺の四面の一辺、街道に面する部分の美しい石垣が300メートル(※4)ほど取り壊された。そ して境内の内側へ15メートルほど造成され、そこに商店が並ぶように建てられた。商店街の出現だった。国 宝の千手観音がまつられていた名刹は、境内を切り売りしたのだ。寺が売ったのか、地元の経済発展の要請 がそうさせたのか、本当のところは分からない。 …(中略)… 変化は急激だった。田んぼの中を流れ、夏になるとホタルが飛んだ小川の流域は新興住宅地となり、小川 は下水路になった。古墳のあったカルタ池(※5)、神社(※6)に接したブクンダ池(※7)は埋められて保育園(※8) や駐車場(※9)になり、実家前にあった釣りのできた大きな三つの池(※10)も埋められて、小学校(※11)、市の施 設(※12)、住宅地(※13)に変わった。 …(後略)… ※1=藤井寺小学校 ※2=筆者の年齢から昭和27年頃とみられる。 ※3=葛井寺 ※4=現在の商店街の状況から見て、160m程度と推定される。300mは筆者の記憶違いと思われる。 ※5=苅田池(鉢塚古墳に隣接。現地区駐車場) ※6=辛國(からくに)神社 ※7=仏供田(ぶくんだ)池 ※8=市立第3保育所 ※9=市立藤井寺駅南駐車場 ※10=三ツ池(総称) ※11=藤井寺南小学校 ※12=市立生涯学習センター ※13=升池跡地の住宅地 |
地域や寺に対する配慮からか、筆者は寺の具体名を意識的に避けられていますが、「西国札所」や「国宝の千手観 音」で葛井寺であることが読み取れます。さらに、「カルタ池」「ブクンダ池」「埋められて保育園…」「大きな三 つの池」などの記述から地域を特定することができ、まぎれもなく葛井寺のことであるとわかります。 |
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「イチョウの大木」というのは、おそらく境内の南西部にあったのではな いかと思われます。この場所には明治末期まで長野神社がありました。明治 39年の神社合祀令により、41年に近くの辛國神社に合祀されましたが、イチ ョウはその跡地にあったものではないかと推測されます。現在はその近くに クスの大木がそびえています。この記述に従えば、現在葛井寺境内の西側に 接する商店の並びはこの時期から登場したことになります。 現在のこの商店街は、店の種類や経営者が当時とはかなり入れ替わってい ますが、古くから葛井寺と深い関わりを持ちながら発展し存在してきた背景 に、興味深いものが感じられます。 |
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境内の一部だった商店街(南西より) 商店の後方にクスの大木が見える。 |