仲津山古墳
(なかつやまこふん)
《 皇后仲姫命(こうごうなかつひめのみこと)仲津山陵(なかつやまのみささぎ)

   桜が満開の野中宮山古墳   仲津山古墳
  紅葉期の仲津山古墳 (北側より見る)
    右上は
古室山(こむろやま)古墳で、左下は鍋塚古墳。いず
    れも国史跡。仲津山古墳の左上に横に三つ並ぶ方墳は
    「三ツ塚古墳」と総称される。ここの壕の跡から古代
    の木ぞり
「修羅(しゅら)が発見された。中央上に見える
    緑の円形は「盾塚古墳公園」。右下で、内堤上とその
    斜面に続く木の茂みは澤田八幡神社。右上端の線は西
    名阪自動車道、左に通るのは国道旧170号。
真上から見た仲津山古墳   下が古室山古墳、
  右上が鍋塚古墳。右下が「三ツ塚古墳」で、一番
  西側が国史跡の国史跡の
助太山(すけたやま)古墳
   左上に斜めに見える線は近鉄南大阪線。線路が
  横切っている木の茂みが澤田八幡神社。その南西
  側は古室八幡神社。右端に南北に通るのは、国道
  旧170号
右上隅の白い屋根は近鉄「土師ノ里(はじ
    のさと)
駅」。
所在地 大阪府藤井寺市沢田4丁
最寄り駅と道のり 近鉄南大阪線・土師ノ里駅より南西へ約900m(拝所まで) 徒歩約14
              後円部外周道路までは約200m
 徒歩約
推定築造時期 4世紀後半




埴 輪 円筒埴輪 宅地化している周堤部の調査で、前方部の南
 西部(拝所両側)、後円部の南東部と北東部で円筒埴輪
 列の下部が出土している。

形象埴輪 蓋(きぬがさ)形、盾形、、(ゆぎ)
古   墳    形 前方後円墳




(m)
 
墳  丘  長   290
前方部   193
高さ    23.3 石製品 勾玉(まがたま)の出土が地元で伝えられている。
後円部    170  埋葬施設 埋葬施設については不明。石棺の存在が地元で伝えら
れている。
 
高さ    26.2
頂高    50.2  その他の造り くびれ部の両側に方壇状の造出し(つくりだし)
応神陵に次ぐ大きさの大王陵級古墳
 古市古墳群の中で、
誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)に次ぐ2番目の大きさで、全国では9番目の大
きさです。応神天皇の皇后である仲津姫
(なかつひめのみこと)皇后の陵と治定(じじょう)されています。
 以前には5世紀前半頃の築造と推定されていましたが、堤上に巡らされた円筒埴輪の特徴から
円筒埴輪の製造
時期が津堂城山古墳の物よりは後で、誉田御廟山古墳の物よりは前であるとみられ、4世紀後半に築造された古墳
であると推定されます。先に亡くなった応神天皇の陵の築造推定時期よりもだいぶ前に築造されたことになり、順
序が合いません。亡くなったすぐ後で陵が造られるとは限りませんが、研究者には大きな疑問が持たれていて、仲
津山古墳は仲哀天皇陵ではないかという学説など、諸説が展開されています。誉田御廟山古墳も仲津山古墳も、陵
墓ということで墳丘本体の発掘調査が一切認められていません。そのためにそれぞれの築造時期をはっきりさせら
れない中で、少ない手掛かりを基にして様々な学説が提起されているのです。
 ともあれ、仲津山古墳が、河内平野で比較的早い時期に登場した大王級の大型前方後円墳であることは、間違
いのないところでしょう。


狭くて深い周濠と幅広の堤
 くびれ部の両側には、後円部に掛かる方壇状の造出しがあります。幅が狭くて深い周濠幅広の堤
この古
墳を特徴づけるものとなっています。
 周濠は、市野山(いちのやま)古墳と同じようにほとんど空堀
深さのある様子がよくわかります。どちらの古墳も
国府
(こう)台地の高い土地に造られており、周囲の地形との関係で、もともと多くの水をためることは無理な場所で
す。
 堤の上は以前から完全に宅地化しており、改築に伴う発掘調査で堤の概要がわかりました。堤の外側斜面にも
(ふきいし)が施されており、堤の幅は基底部で45〜50m、上面の平坦部が25m前後あります。平坦部の内側(壕の周
囲)には円筒埴輪列が確認されました。これらを基に古墳全体の大きさを推測復元すると、総長
410mぐらいの大
きさになります。
 堤の部分は民有地化していたために宮内庁の管理外で、前方部の南西側を除いて周濠のすぐ周囲に道路が造られ
ています。おかげで、周濠に沿って歩きながら、フェンス越しに濠や墳丘の様子を間近に見ることができます。北
側の直線部分の真ん中辺りには、澤田八幡神社があります。クスの大木があって、航空写真でもよくわかります。
堤の上と斜面を利用して江戸時代に創建されていますが、現在は境内の真ん中を近鉄南大阪線の電車が通り抜ける
という、全国的にも珍しい神社です。


陪冢と埴輪窯跡
 仲津山古墳の周りには、いくつもの古墳があります。すぐ南西側には前方後円墳の
古室山(こむろやま)古墳あり、
公園化されているので自由に墳丘に登ることができます。津堂城山古墳野中宮山古墳とともに、墳丘に自由に出
入りできる数少ない前方後円墳です。
 円墳や方墳の小古墳もいくつかあります。北東側の土師ノ里駅のすぐ前には、国史跡の鍋塚古墳がありま
す。
の姿は円墳のようにも見えますが、一辺約50m、高さ7mの方墳です。土師ノ里駅の周りには、かつて「沢田の
七つ塚
」と呼ばれた多くの小古墳がありました。それらは市野山古墳や仲津山古墳の陪冢と考えられていま
すが、
残念ながら道路や建物の建設に伴って次々と姿を消していきました。唯一残っているのが鍋塚古墳です。
 南東側には、三つの方墳が東西に一列に並んだ「三ツ塚古墳
と総称される古墳があります。東から順に、八島
(やしまづか)
中山塚助太山(すけたやま)といいます。八島塚と中山塚が一辺50mの方墳で、助太山は一辺36mの方
墳です。陪冢群ということで、八島塚は「仲姫皇后陵ろ号陪冢」、中山塚は「仲姫皇后陵い号陪冢」に治定され、
助太山は早くに国史跡に指定されています。“三つ並んだ陪冢”という特徴のほかには、そんなに注目されること
もなかったのですが、1978年(昭和53年)にこの古墳の濠跡で一大発見があり、三ツ塚古墳は一躍有名な古墳となり
ました。八島塚と中山塚の間の濠跡が、マンション建設に先立って発掘調査されましたが、濠底部分から巨大な木
製のソリ「
修羅(しゅら)」が出土したのです。考古学上の大ニュースとして報じられ、全国から見学者が訪れました。
 三ツ塚古墳のすぐ北側は仲津山古墳の堤の斜面となっています。この場所を利用して設けられた埴輪を焼く窯の
跡がいくつも発見されています。この窯跡群は東方にある道明寺天満宮前の斜面まで数百mも続いています。現在
までに
16基の窯跡が見つかっており、「土師の里埴輪窯跡群(はにわがまあとぐん)」と名付けられています。これらの
窯は、出土した埴輪の特徴から5世紀中頃を中心に使用されたものと考えられています。土師の里埴輪窯跡群の南
300mほどの所には、もう一つ「土師の里南埴輪窯跡群」も見つかっています。

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