野中ボケ山古墳 (のなかぼけやまこふん) |
《 仁賢天皇(にんけんてんのう)埴生坂本陵(はにふのさかもとのみささぎ) 》 |
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新しい時期に造られた古墳 野中ボケ山古墳は、羽曳野(はびきの)丘陵東側の洪積段丘地形 をうまく取り込んで造られた前方後円墳です。地図や航空写 真で見ると、近くに古市古墳群の大型前方後円墳がいくつも あるので、小さく感じてしまいますが、総長175m、墳丘長 122mの中型前方後円墳です。 墳丘長では古墳群の中で10 番目の大きさで、第24代・仁賢天皇の陵に治定されていま す。 前方部の方が高くて大きく広がる形が特長で、古墳群の中 では新しい時期に造られた古墳です。北西が高く南東が低い という段丘地形による制約のためか、周濠は非対称形で南東 側の幅の方がずっと広くなっています。くびれ部の南東側だ けに造出しが設けられています。 埴輪と埴輪窯 1975年(昭和50年)・1979年の大阪府教育委員会による調査 で後円部北東側と前方部北西側の堤で円筒埴輪列が見つかっ ています。 |
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真上から見る野中ボケ山古墳 後円部の広がっている様子がわかる。周濠は東側の方 がずっと広い。写真上端は上田(か みのた)池、右上は下田 (しものた)池の一部。 |
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1981年(昭和56年)の羽曳野市教育委員会による調査では、今は宅地化している前方部北西側の堤に接する斜面で 2基の埴輪窯が見つかりました。出土した円筒埴輪の特徴から、野中ボケ山古墳の築造に合わせて造られた窯であ るとみられます。これらの埴輪の編年から、この古墳は6世紀前半の築造と推定されています。古市古墳群では終 末期に近い時期で、大型前方後円墳の築造は終わっていて、中型前方後円墳以下になってきた時期です。埋葬施設 や副葬品については不明ですが、築造時期から考えて横穴式石室が採用されている可能性があります。 濠には水が貯えられており、堤に接して東側には上田池(かみのたいけ)、北側には下田池(しものたいけ)というため池もあっ て、昔から北側下流の水田の灌漑用水として大切な役割を担ってきました。また、これらの池の一部や隣接地は、 古代に造られていた運河・「古市大溝(ふるいちおおみぞ)」の一部分だと推定されています。 |
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