現在の藤井寺市の地域には、明治時代の中頃まで、14の村がありました。この14の村は、 江戸時代以前から三つの別々の郡に属する村でした。 明治22年に全国に市町村制度が施行され、各地で大合併が行われました。その時に、14の 村が、まず4つの大きな村に合併・統合しました。 その後、何度も合併をくりかえして、現在の藤井寺市が誕生したのです。 |
江戸時代から 明治時代の初 めの頃 |
か わ ち 旧 河 内 国 |
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たんなん 《 旧丹南郡 》 |
たんぼく 《 旧丹北郡 》 |
しき 《 旧志紀郡 》 |
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岡村 藤井寺村 野中村 |
津堂村 丹北小山村 |
小山村 林村 大井村 北條村 沢田村 船橋村 国府村 古室村 道明寺村 |
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明治22年に市 町村制度が施 行され、全国 で最初の大規 模な村落合併 がおこなわれ た |
岡村 藤井寺村 のなか 野中村 |
津堂村 たんぼくこやま 丹北小山村 小山村 《志紀郡へ編入》 |
大井村 北條村 ふなはし 船橋村 こ う 国府村 どうみょうじ 道明寺村 |
林村 沢田村 こむろ 古室村 |
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1889.4.1 明治22年 |
長 野 村 | 小 山 村 | 道明寺村 | 沢 田 村 | ||||
1890.3.31 明治23年 |
道 明 寺 村 | |||||||
1896.5.4 明治29年 |
藤井寺村 | |||||||
1915.11.10 大正4年 |
藤 井 寺 村 | |||||||
1928.10.15 昭和3年 |
藤 井 寺 町 | |||||||
1951.1.1 昭和26年 |
道 明 寺 町 | |||||||
1959.4.20 昭和34年 |
藤井寺道明寺町 | |||||||
1960.1.1 昭和35年 |
美 陵 町(みささぎちょう) | |||||||
1966.11.1 昭和41年 |
藤 井 寺 市 | |||||||
合併と新しい市町名 |
一つの町へ 現在の藤井寺市の区域が一つの自治体になったのは、1959年(昭和34年)4月20日の「藤井寺道明寺町」 の発足が最初です。その前の昭和32年3月には大阪府総務部から、南大阪町(現羽曳野市)・藤井寺町・道明 寺町の3町で合併をするよう勧告がありましたが、藤井寺町・道明寺町とも消極的で、時期尚早との態度 表明しました。その後2町合併の方向に進み、昭和34年3月5日に両町の町議会で合併申請案が可決され、 大阪府知事に申請されました。そして、4月20日に新しい町が発足したのです。 新しい町名 「藤井寺道明寺町」という寺の名称が二つも並ぶ町名は、全国的にも大変珍しいものです。市町村が合 併する時に新しい市町村名をめぐって、旧自治体が自分たちの地域の名前を守りたくてなかなかまとまら ないという例は数多く見られます。藤井寺町と道明寺町の場合も、どちらも由緒ある寺院の門前町として の町名に愛着が強く、行き着いたところが「藤井寺道明寺町」というものだったのです。どちらの名前も 消えなかったという点では公平だったわけです。しかしながら、文字で書くにも口で言うにも、いかにも 長くて語呂が悪く、使いにくい町名でした。合併後1年を経ずして、新しい町名に変更されます。もっと も、この変更は合併する時点で予定されていました。昭和39年8月7日付で当時の美陵町長から大阪府南河 内地方事務所長に提出された報告文書『市町村合併の結果について』の中で、新町名については次のよう に書かれています。「…、町名については共に古来由緒深き土地柄名称保存するにつき藤井寺道明寺町と し、発足後適当な時期に公募により町名変更を考慮するものとしたものである。…」。かくして、取りあ えずは「藤井寺道明寺町」で、となったわけです。ちなみに、どちらの町名を前に付けるかは、両町長に よる抽選の上で決めたそうです。 再び新しい町名へ 当初の予定通り、新町名案の公募と市民投票、町議会決議を経て昭和34年12月25日に『町の名称を変更 する条例』が公布され、「美陵町(みささぎちょう)」の名前が決まりました。そして、翌昭和35年1月1日に、新 名「美陵町」が発足しました。 「美陵」とは、「美しい御陵(ごりょう)」を表します。藤井寺市内にたくさん点在する大型前方後円墳の中 には、天皇・皇后陵として治定されている「陵(みささぎ)」がいくつもあり、一般に御陵と呼ばれています。 この町のそうした景観を象徴する名前として「美陵町」が選定されたのです。 新町名の決定で落ち着いた美陵町では、昭和40年6月に「町章」を制定します。これも公募で図案を募り、 選定されました。市制に移行してからもそのまま市章として引き継がれ、現在に至っています。 市制施行と新市名 1966年(昭和41年)6月、町の人口が4万人を越えたとして、美陵町議会で美陵町を市とすることを促進す る議案が満場一致で承認されました。町は市制施行の準備として、正確な人口を確定するための「美陵町 常住人口統計調査」を実施しました。8月15日現在の調査で、9月に総理府(当時)統計局が発表した集計 結果では、人口40,781人でした。 8月27日、町議会で『美陵町を市にすることについて』という議案が可決され、8月29日には美陵町長 より大阪府知事に『美陵町を市にすることについて(申請)』という申請書が提出されました。その中には 「11月1日付で美陵町を市にしたい」旨が記されていますが、新市名は未定で空白となっていました。 町は新市名について選択式アンケートを実施することにし、9月27日に町内10,457世帯に往復はがき が発送されました。市制施行後の11月10日に発行された「広報ふじいでら」第1号に、その結果が掲載され ています。選択肢の候補名は、「藤井寺市」「道明寺市」「阪南市」「大南市」で、6,266通の回答が寄 せられています。内訳は、以下の通りです。 藤井寺市:3,830通 阪南市:1,573通 道明寺市:124通 大南市:83通 美陵市:65通 南大阪市・南河内市など:54通 無効:537通 この結果を受けて、10月13日の臨時町議会で「藤井寺市」を新市名とすることが決定されました。選択肢 以外の記入も1割以上あったようで、候補名から除外されていた「美陵市」を敢えて望む人もいたことがわ かります。「美陵」が候補から外された理由として、「びりょう」と読み間違えられやすいこと、カナ文 などで「ミサキ」と間違えられることなどのほかに、他府県の人に大阪府にある町であることが通じない ということが大きかったようです。「藤井寺市」への支持が多かったのは、近鉄藤井寺駅が南大阪線の主 要駅の一つであること、近鉄藤井寺球場が知られていること、名刹・葛井寺(ふじいでら)も知られていること などで、ほかの土地の人に通じやすいことが考えられた結果のようです。言わば、「藤井寺」の圧勝と言え る結果でした。ついでながら、「阪南市」は、後に大阪府南部の泉南郡で誕生する市名です。 昭和41年10月17日月の『大阪府公報』で、「昭和41年11月1日から南河内郡美陵町を市とする」「市とな る日から名称を藤井寺市に変更することを許可する」旨の大阪知事による告示が発表され、ここに美陵町 の市制施行が決定しました。こうして、1966年(昭和41年)11月1日、待望の藤井寺市が誕生しました。 |