空から見る校区とそのまわり 《 2015年 》
空から見る校区とそのまわり 1 藤井寺市立藤井寺南小学校
藤井寺市立藤井寺西小学校
藤井寺市立藤井寺中学校
大阪府立藤井寺工科高等高校

羽曳野市立白鳥小学校
四天王寺小学校(藤井寺球場跡地)
四天王寺東中学校・東高等学校(〃)
大阪緑涼高等学校
近畿日本鉄道・藤井寺駅
10
近畿日本鉄道・古市(ふるいち)
11 近畿日本鉄道・南大阪線
12 西名阪自動車道
13 国道
170(大阪外環状線)
14 国道旧
170
15 府道
12号・堺大和高田線
16 府道
31号・堺羽曳野線
17 竹内
(たけのうち)街道(この部分元府道旧31号)
18 府道
186号・大阪羽曳野線
19 沢田交差点
20 野中
(のなか)交差点
21 大水
(おおずい)
22 新池
23
下田池
(しものたいけ)
24 上田池(かみのたいけ)
25 芦が池
26 中ノ池

27 大阪府藤井寺保健所
28 大阪広域水道企業団美陵
(みささぎ)ポンプ場
29 大阪府警察羽曳野警察署
30 柏原羽曳野藤井寺消防組合消防本部
31 藤井寺市生涯学習センター
  「アイセルシュラホール」

32 藤井寺市野中
(のなか)
配水場T
33 ブクンダ公園
34 野中宮山児童公園
35 藤井寺市立藤井寺南幼稚園

36 元藤井寺南幼稚園野中分園
37 元藤井寺市立藤井寺西幼稚園
38 藤井寺市立第3保育所
39 ななこども園(旧市立第7保育所)
40 羽曳野市役所
 
                〔GoogleEarth 2015(平成27)年11月〕より     文字・線入れ等一部加工  
  41 羽曳野市立生活文化情報センター
  「LICはびきの」

42 藤井寺郵便局
43 関西電力藤井寺変電所
44 医療法人ラポール会・青山病院

45 古林紙工(株)藤井寺工場
46 イズミヤ古市店
47
イオン藤井寺ショッピングセンター

48 葛井寺(ふじいでら)
49
野中寺(やちゅうじ)
50 辛国
(からくに)神社
51 野中(のなか)神社
52 鉢塚古墳
53 岡ミサンザイ古墳
54 割塚古墳
55 蕃所山古墳(モッコ塚)
56 はざみ山古墳
57 東山古墳
58 稲荷塚古墳
59 野中宮山古墳
60 野中古墳

61 ボケ山古墳(仁賢天皇陵)
62 青山古墳
63 浄元寺山
(じょうがんじやま)古墳
64 墓山古墳
65 向墓山古墳
66 西馬塚古墳
67
峯ヶ塚(みねがづか)古墳
68
誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)
69 誉田御廟山古墳外濠跡地
70 「古市大溝
(ふるいちおおみぞ)
」推定跡地
71 UR都市機構サンヴァリエ藤井寺
72 UR都市機構サンヴァリエ春日丘
「藤井寺南小学校の校区地図」   「藤井寺南小学校の周辺地図」
「空から見る学校のまわり」   「学校のまわりの様子」

 昔の校区の様子  《 1948年 》
昔の校区の様子
                〔1948(昭和23)年9月1日 米軍撮影 国土地理院〕より     文字・線入れ等一部加工
 今から60年余り前、太平洋戦争敗戦の2年半後に撮影された校区周辺の様子です。当時連合国軍として日本に占領駐留して
いたアメリカ軍によって撮影されたものです。戦前とほとんど変わっていない様子を知ることのできる貴重な写真です。
 現在の藤井寺南小学校区の中で、当時あった集落は一つだけだったことがわかります。野中宮山古墳と墓山古墳の間に展開
する野中地区(旧野中村)の集落です。それ以外の現在見られる多くの住宅地は、すべてこの後の数十年間に田畑から変化して
いったものなのです。
 藤井寺南小学校区の大部分は旧野中村の領域でした。北部に旧藤井寺村・旧古室村の一部を合わせていますが、その地域は
当時はまったく住宅の無いため池や水田地帯でした。このため、校区内には神社は1社、お寺は2寺しかありません。校区の
広さの割には、少ないと言えるでしょう。広い水田地帯の中に1ヵ所だけ集落があり、その中にだけお寺や神社があった、と
いう地域の成り立ちだったのです。
 現在藤井寺南小学校がある場所は、当時は池であったことがわります。学校ができた池は米口池(込口池)といいました。そ
の西側で現在は住宅地となっている場所は升池と言いました。北側にあって現在も一部が残っているのが新池です。三つの池
がかたまって在ることから、この場所は総称として「三ツ池と呼ばれていました。
 他にも、埋め立てられて無くなった池や
一部が残っている池があります。南の方にある上田池(かみのたいけ)も大きなため池で
したが、3分の1ほどが埋め立てられて、新しい消防本部が造られました。
 写真全体で目に付くのは、やはり多くの古墳の存在です。昔も今もその様子は変わっていないようですが
残念ながら小古
墳のいくつかは施設や住宅ができるのに伴って消滅しました。写真では、大型前方後円墳の周りで、水田地帯の中に島のよう
に点在する小古墳の様子がわかります。
 古代の運河と言われる
古市大溝(ふるいちおおみぞ)の跡地の形もよくわかります。現在は埋め立てられている部分も、当時はまだ水
がある細長い池の姿で、黒く写っているのがわかります。現在の写真と対比して見てください。写真左側に見える大溝跡に接
して、現在の陵南町の形がうっすらと見えています。
 道路では、校区の真ん中を南北に通る府道186号
大阪羽曳野線当時の幹線道路であることがわかります。この後、高度
経済成長時代になって、西名阪自動車道や国道170号(大阪外環状線
)、府道31号バイパス線が建設され、地域の様子は大きく変
貌していきました。大阪市郊外ののんびりした農村地帯が、30年ほどの間に住宅や商店が広がる住宅都市に変わっていったの
でした。
 校区外ですが、ついでに紹介します。上の写真の33
ブクンダ公園ブクンダ池(仏供田池)を埋め立てて造られました。
下の写真ではその池がはっきりと写っています。また
ブクンダ池の南側半分ほどは、市立第3保育所と市立藤井寺駅南駐輪
駐車場
なりました。
 このブクンダ池と藤井寺駅の間に、白っぽい長方形の土地が写っていますが
この場所は当時菊水中学校(後菊水高等学
校)
」という私立の学校でした。実は、この場所も元々はブクンダ池で昭和11年に宅地に転用されて民有地となっていました。
菊水高等学校は1952年(昭和27年)に廃校となり、その後商業用地に利用されました。現在は銀行や商業ビル、商店街となって
います。その一角にある通りを「菊水通商店街」と言い、ここにその名を留めています。ちなみに
菊水というのは、南北朝
時代に南朝方に最後まで忠義を尽くしたということで、戦前・戦中に忠君愛国の手本として多く語られた楠木正成が旗印に用
いていた菊水紋に由来しています。楠木正成は南河内地域、特に金剛山一帯を根拠地としていたと言われていることから、こ
の地域には
楠公(なんこう)史蹟が多く、「菊水」の名が付いたものも多かったのです。
 
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