藤井寺球場誕生の歴史とその背景 |
「藤井寺経営地」の事業
藤井寺球場は、もともと大阪鉄道(近畿日本鉄道の前身)が開発に取り組んだ「藤井寺経営地」計画の一環と
して造られました。「藤井寺経営地」とは、電鉄会社による沿線の地域開発総合計画のようなものでした。
1922(大正11)年4月に大阪鉄道の道明寺(どうみょうじ)−布忍(ぬのせ)間が開通し、藤井寺駅が開業しました。翌年4月
には布忍−大阪天王寺(後大阪阿部野橋)間が延伸開業して、大阪天王寺−河内長野間が1本の線でつながり、秋
にはこの区間の電化が完成しました。南河内地域と大阪市とが、1本の電車で行き来できるようになったのです。
日本一、二の商工業都市になりつつあった大阪市に近い郊外にあった藤井寺の地は、この後、大都市大阪に勤労
者を供給する衛星都市化に向けて変化を始めていきます。40年ほど経った戦後の高度経済成長期には人口急増期
を迎え、やがて市制を施行して藤井寺市となり、大阪市を囲む衛星住宅都市の一つとなっています。
藤井寺駅開業2年後の1924(大正13)年には、阪神電気鉄道が阪神甲子園球場を完成させ、さらに、遊園地・動
物園・水族館・総合競技場・テニスコート・競技用プールなどをも次々と開業していきました。また、これらレ
ジャー産業に先立って、それ以前に宅地開発・分譲などの不動産事業も手掛けています。このような電鉄会社に
よる多角経営の形態は、小林一三が創業した箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)によってすでに展開されていました。
沿線の適地に大型テーマパークやレジャー施設、スポーツ施設、分譲住宅地などを建設していくという、今日に
つながる沿線開発の形態が広がってきていました。
このような鉄道会社事業の流れの中で、大阪鉄道は藤井寺の地を一つの開発拠点に選び、新たな事業展開に乗
り出します。それが「藤井寺経営地」という計画でした。
新しい街の出現
大阪鉄道は1925(大正14)年に、沿線の郊外地である藤井寺に展開する「藤井寺経営地」の計画を発案します。
自然体験学習施設の「藤井寺教材園」の開設、分譲住宅地の開発、相撲場などのスポーツ施設の建設など、藤井
寺駅の周辺に展開する一大計画でした。翌1926年にこの計画の立案を依頼されたのは、造園学者で都市計画家の
大屋霊城(おおやれいじょう)でした。大屋霊城は都市公園の計画・設計等で著名であり、昭和初期に全国各地の都市公園
計画を手掛けています。また、大屋霊城はヨーロッパのガーデンシティを念頭に置いた「花苑(花園)都市」とい
う概念を提唱しており、「藤井寺経営地」計画も彼としては「藤井寺花苑都市構想」というものでした。
経営地の総面積は10万坪(約33ha)にも及び、当時の大阪鉄道の経営地の中では最大の規模となりました。今風
に言うならば、ちょっとしたニュータウンの出現でした。経営地内にメインストリートとなる広い大通りを藤井
寺駅前から通し、その道路を中心として分譲住宅地の区画を配置して、さらに児童遊園地や運動施設の設置をも
構想して立案されました。
大通りは、幅約15mで造られ、車道と歩道の間にはイチョウ並木が整然と並んでいました。「いちょう通り」
と名付けられたこの道路は、郊外の田園地帯であった藤井寺村に突如として現れた大変立派な道路でした。現在
の藤井寺駅西交差点から南西に向けて、一直線に約300mほど延びる道路がそれで、道路地図で周辺の道路と比べ
て見ると、大通りであったことが今でもはっきりと見て取れます。現在のような車社会ではない時代、さぞかし
目立ったことでしょう。
この経営地には大阪鉄道によって専用の浄水施設が設置され、上・下水道が整備されていました。当時、藤井
寺村や道明寺村には上水道施設などはまったく無い時代のことです。上水道は、隣接する当時の高鷲村・埴生村
(現羽曳野市)にも供給されました。戦後になって、この上水道施設は、昭和29年に給水開始する藤井寺町営水道
に引き継がれました。
また、電灯線や電話線が引き込まれて完備していました。この地域では、電灯線が引かれてからやっと10年
足らずで、初めて電話線が敷設されたのはわずか4、5年前のことでした。この時にできた住宅街が、今日でも高
級住宅地とされるゆえんの一つです。 |
|
|
藤井寺経営地(戦後間もなくの様子) (1946年6月6日 米軍撮影)
1藤井寺球場 2いちょう通り 3経営地の住宅街
4藤井寺教材園跡地 5教材園内の第2野球場
6ブクンダ池 7菊水中学校(後に菊水高等学校)
8近畿日本鉄道南大阪線・藤井寺駅
9岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵) 10辛國神社
|
戦時中とほぼ同じ様子が見て取れる。藤井寺球場は早くに修復がなさ
れて1946年夏には高校野球の大阪府予選が再開されている。
藤井寺教材園の跡地は、この後にサッカー場やラグビー場、テニスコー
ト、一部は学校用地に転用される。その後、昭和30年代に、学校用地以外
の大部分は住宅公団春日丘団地に生まれ変わった。
藤井寺経営地に新たに造られた道路は、大通りをはじめ住宅街の街路も
現在の市街地にそのまま生かされている。
菊水高校は1952(昭和27)年に廃校となり、その跡地はしばらくは公民館
などに利用されたが、やがて商業用地に変貌していった。 |
「藤井寺球場」の誕生
運動施設としては、阪神電鉄が建設した阪神甲子園球場が全国中等学校野球大会で人気を集めていたことから、
中心施設として野球場が建設されることになりました。こうして誕生したのが、藤井寺球場です。
藤井寺球場は、1927(昭和2)年11月11日に起工、翌1928年5月25日の竣工です。わずか6ヶ月半のスピード工事
でした。アメリカのヤンキースタジアムを目標に大阪鉄道が設計した野球場は、敷地面積が甲子園球場を越える
59,500uで、内野席と芝生の外野席を合わせた収容人員は7万人とされるものでした。当時大阪鉄道は「東洋一
のグラウンド」と宣伝し、沿線住民からは「白亜のお城」と評判されたそうです。
完成当時のグラウンド面積は、これまた甲子園球場の13,000uを越える15,207uと広く、外周が315mあるスタ
ンド建物は3階建てで、内野席一面を甲子園のような大屋根(鉄傘)でおおってありました。観覧席面積は13,819
uあり、40段の階段席になっていました。内野スタンドの階下には、大食堂・医務室・本部室・選手控室・浴場
・売店・新聞記者室・特別休憩室、700人収容の集会室2部屋が造られ、スタンド中央上部には喫茶店兼用の休憩
室もありました。グラウンドにも工夫がなされており、地下にクモの巣状の排水溝を設け、ダイヤモンド内には
栗石を敷き詰めて上層を黒土と砂を混ぜて敷き詰めてありました。
完成した藤井寺球場は、3年後には全国中等学校優勝野球大会の大阪府予選会場の一つに使用されるようにな
りました。また、学童野球や中等学校(現高等学校)・大学の試合にも使用され、年間100を越える試合が行われ
ていたそうです。
藤井寺経営地の建設が進み藤井寺球場が完成した昭和3年には、藤井寺村の人口が5,000人を越え、10月15日に
「藤井寺町」となりました。 |
|
|
|
|
完成当時の藤井寺球場の外観(北西より) |
完成当時の藤井寺球場の内野スタンドと大鉄傘 |
(藤井寺球場落成記念絵葉書より 昭和3年5月27日) |
戦争で荒れ果てた藤井寺球場
戦時体制下の昭和17(1942)年には大阪市と使用貸借が結ばれ、大阪市に30年間無償貸与されることになりまし
た。大阪市は、郊外学習や健康学園、体育行事などに使用しました。戦局が悪化してきた昭和18年には、内野ス
タンドの大鉄傘(てっさん)が戦時供出のために解体撤去されました。さらに、食料不足によりグラウンドは畑に変え
られて、大豆やさつまいもが植えられました。建物の一部は軍の食料倉庫にされて、すっかり野球場ではなくな
りました。昭和20年8月の敗戦直後には、グラウンド一面に雑草が生い茂り、外野席の土手の土がえぐり取られて
赤肌を見せており、建物の窓ガラスはいたる所が割れたままになっていました。戦争をくぐる中で荒廃した野球
場は、まるで廃墟のような姿となっていました。翌年の昭和21年には、早くも中等学校野球の大阪府予選に使用
されるところまで復旧しましたが、撤去された大鉄傘はついに最後まで復活することはありませんでした。
「藤井寺教材園」の誕生
藤井寺球場の南側には、72,600uの土地を利用して大屋霊城の設計による「藤井寺教材園」が造られました。
1929(昭和4)年5月に開設しましたが、これまたわずか4ヶ月足らずのスピード工事でした。
自然観察園として設計されましたが、その目的は、『大阪府下の小学校・中学校の児童・生徒の自然科学研究
・観察のための資料館たること』にあり、そのために広く教材用の動植物を集めて分類・飼育し、実地に生態研
究ができるようにして、希望があれば学校に対して生きた教材を提供しました。このような施設は日本ではこれ
が最初で、それだけに教育界のみならず多くの方面から大きな期待が寄せられました。整然と並ぶ住宅地に接し
てこのような施設が造られたのは、設計者である大屋霊城が提唱する花苑都市の構想が強く反映されたものと言
えるでしょう。
教材園の内部は、中央に自然の松林をそのまま生かし、その周囲には1,200坪(約4,000u)の水中動植物養殖池
を配置しました。園内には、果樹苑・蔬菜(そさい)園・樹木見本園・草本園・花卉(かき)園・桜樹園・楓樹園・温室・
動物舎・学校専用実習地・児童運動場などが造られました。教材園の最南部には第2野球場が造られていて、藤
井寺球場で開催される試合の予備会場や練習場として使用されました。この野球場は、教材園が閉鎖になった後
も戦後しばらくまで存在し利用されていました。後にできた住宅公団春日丘住宅の一番南の部分がその場所でし
た。
小学校の遠足などを積極的に誘致したことで、「藤井寺教材園」は大阪市内の小中学生などでにぎわったこと
が伝えられています。また、園内で作られた自然教材の配布先は、大阪市内の200校あまりの内の120校にも及ん
だそうです。 |
|
|
|
教材園入口の様子 |
|
教材園内の池の様子 |
「カメラ風土記 ふじいでら」(1979年 藤井寺ライオンズクラブ)より |
学校と住宅団地に
藤井寺教材園は、大都市郊外にできた当時としては画期的な施設でしたが、残念ながらその寿命は短いもので
した。昭和大恐慌の影響を受けて大阪鉄道の経営が悪化したことにより、1933(昭和8)年には閉鎖状態となりまし
た。その後、この敷地が学校用地として適当なことが世に知られるようになり、大阪鉄道も学校用地への転用を
受け入れました。
天王寺高等女学校郊外分校・藤井寺学園相愛第二高等女学校(後 藤井寺高等女学校)・天王寺商業学校郊
外学舎などが、続々と建設されました。そのため、教材園の敷地は1/10弱にまで縮小され、戦時中に残っていた
のは第2球場と園池・温室などだけでした。
戦後は、藤井寺高等女学校だけが残り、教材園の敷地はテニスコートやサッカー場・ラグビー場となって、さ
らに、昭和30年代になると日本住宅公団(現・都市再生機構)が「春日丘団地」を建設しました。
藤井寺高等女学校は、戦後になって藤井寺高等学校 →相愛第二高等学校と名称を変え、1954(昭和29)年6月に
は谷岡学園に吸収合併されて、大阪商業大学附属女子高等学校となりました。そして、翌昭和30年4月に同じ場
所に大阪女子短期大学が開学すると共に大阪女子短期大学附属高等学校(後に大阪女子短期大学高等学校)と改
称しました。2018年3月には大阪女子短期大学が閉学となり、高校は大阪緑涼高等学校と改称しました。 |
現在では短大だった施設も含めた全体が高校とな
っており、その敷地は隣接する羽曳野市域に複雑に
またがっています。
春日丘団地は、都市再生機構の建て替え高層化事
業によって、2008(平成20)年に「サンヴァリエ春日
丘」に生まれ変わりました。旧団地敷地の半分ほどは
民有地となり、戸建ての住宅が並ぶ「春日丘新町」と
いう新町名に変わりました。
藤井寺教材園が閉鎖状態となってから約90年近く
が過ぎました。現在は、藤井寺教材園の施設らしい
ものは何も残っていません。わずかに、サンヴァリ
エ春日丘の敷地内に残された数本の松の大木などだ
けがありし日の「藤井寺教材園」にしっかりと存在
した自然の名残を伝えてくれています。 |
|
団地内に残された松の木など |
|
|
集会所の周りに残さ
れたアカマツとコナラ
の大木。元々の自然林
にあったもので、樹齢
は400年を越えると言
われている。 |
緑地帯に残されているクロマツ。
左側後方の建物は春日丘団地に建て
られていた「スターハウス」。今は
珍しい星形の建物で、かつて公団住
宅に多く造られた。モニュメントと
して、1棟だけ内部を給水施設に改
装して保存されている。 |
|