前の山古墳
(まえのやまこふん)
《 日本武尊白鳥陵(やまとたけるのみことしらとりのみささぎ) 》
別     名 軽里(かるさと)大塚古墳   軽里前之山古墳   
所  在  地 大阪府羽曳野(はびきの)市軽里(かるさと)3丁目
最寄り駅と道のり 近鉄南大阪線・古市(ふるいち)駅より西へ約km(拝所まで) 徒歩約16
               
周濠北岸縁まで約500m 徒歩約8分
推定築造時期 5世紀後半


埴 輪 円筒埴輪
 後円部で円筒埴輪列を確認
 古墳時代中期の新しい時期の特徴あり
形象埴輪(家形、盾形など)
古  墳   形 前方後円墳




(m)
 
墳  丘  長    200
前方部    165 埋 葬 施 設 埋葬施設については不明
高さ     23.3
後円部     106 その他の造り 二段構成の墳丘で前方部の幅が後円部径の1.5陪
北側くびれ部の前方部側に造出し
(つくりだし)
幅30〜50mの広い周濠
高さ     20.5
頂高     53.2
前の山古墳 真上から見る前の山古墳
前の山古墳(南東より
  ゆったりとした周濠の様子がよくわかる。周濠の岸
 ぎりぎりまで住宅などが建ち並んでいる。
  写真左上隅は国道
170号(大阪外環状線)。
真上から見る前の山古墳  
  前方部の大きく広がっている様子がわかる。周濠は幅
 が広くて面積の大きいことがよくわかる。写真右上隅か
 ら周濠北岸に接している細い道路が、古市駅からの参拝
 路でもある
竹内(たけのうち)街道
伝説の地 ― 白鳥陵
 第12代景行
(けいこう)天皇の皇子で第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の父とされる日本武尊の陵に治定(じじょう)されています。陵の
正式名が長く、天皇陵名のような略し方もしにくいので、通称として「はくちょうりょう」と呼ばれています。
 後円部の東から北に接する地域は「白鳥
(はくちょう)」という地区です。この地域の子どもたちが通う小学校は「白鳥
(はくちょう)小学校」といい、地区内を東西に横切る市道は、「白鳥
(はくちょう)通り」といいます。古市駅のすぐ東には「白鳥
(しらとり)神社があります。
 「白鳥」の付く名称が多いのは、もちろん白鳥陵に由来しているのですが、他の陵のような古来の所在地名と違
って、なぜ「白鳥の陵」なのでしょうか。それは、『古事記』や『日本書紀』に出てくるいわゆる「白鳥伝説」に基づ
いているからなのです。日本武尊は古事記や日本書紀に登場する古代の英雄でもあります。

広がる前方部と広い周濠
 前の山古墳は、羽曳野丘陵東側の縁辺に前方部を西に向けて造られた前方後円墳です。
古市(ふるいち)古墳群の中では
南部の新しい時代に属するグループに入り、それらの中では最大級の古墳です。
 二段構成の墳丘は、前方部の幅が後円部径の
1.5陪ほどもあり、台形のように大きく広がった形が目を引きます。
高さも後円部の方が約3m高くなっており、これらの特徴は前方後円墳としては新しい時期の様相を示しています。
また、上の写真ではわかりにくいですが、北側のくびれ部だけに、前方部側に造出しが設けられています。墳丘の
規模の割に周濠の面積が大きく、幅
30〜50mの雄大な濠がめぐらされています。
 以前から、旧地図上で見られる農地の区割り形状から周庭帯の存在が指摘されていましたが、1979(昭和54)年に
羽曳野市教育委員会が行った外堤部の発掘調査によ
って、「外堤を画する(範囲区分する)溝」が確認され、堤は約21
の幅を持つことがわかりました。溝は浅くて、幅は約4.5mありました。
 1981(昭和56)年に宮内庁が実施した墳丘崩壊箇所の調査によって、後円部には約10cm間隔で円筒埴輪が列状に
立て並べられていることが確認されました。これらの埴輪と古墳周辺から出土した円筒埴輪は、古墳中期でも新しい
時期の特徴を示しています。また、外堤の発掘調査では、家形埴輪盾形埴輪などが見つかっています。出土した埴
輪は、すべて窖窯
(あながま)で焼かれたものでした。
 墳丘の形について、堺市・百舌鳥(もず)古墳群土師(はぜ)ニサンザイ古墳と相似形であることが指摘されています。
また、古市古墳群の中にあって、その位置・墳丘の形・出土埴輪の特徴などから、前の山古墳は古墳時代中期(4世
紀末〜5世紀後半)から後期(5世紀末〜7世紀初)への過渡期の古墳であると考えられています。


      
「日本武尊陵墓」と「白鳥伝説」

 三つの日本武尊陵墓
   ◆ 大阪府羽曳野市軽里(旧・古市村) 日本武尊白鳥陵 (前の山古墳・軽里大塚古墳)
   ◆ 奈良県御所市富田        日本武尊白鳥陵 (琴弾原(ことびきはら)白鳥陵)
   ◆ 三重県亀山市田村町       
日本武尊能褒野墓(のぼののはか) (能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん) )
  陵墓名は宮内庁の治定によっていますが、二つの白鳥陵だけが「陵」です。治定されるに当たっての身分は、
 いずれも「景行天皇皇子
ですが、現行の陵墓名で皇子・皇女の墓に「陵」とついているのはこの皇子だけです。
 しかも、一つの陵墓に複数の天皇や皇族が祀られている例はいくつもありますが
一人に3ヵ所の陵墓が治定さ
 れている例はほかにはありません
陵墓の治定作業が進められた明治初期から中頃の時期に記紀に登場する「
 本武尊」の存在が、いかに重視されていたかをうかがわせます。
  3陵墓の内、前の山古墳と能褒野王塚古墳が前方後円墳で、能褒野王塚古墳は墳丘長
90mです。つまり、前の
 山古墳の白鳥陵が群を抜いて大きいことになります。

 白鳥伝説」

  なぜ3ヵ所の治定となったのかというのは、『古事記』『日本書紀』で日本武尊に関する記述の中に出てくる
 いわゆる
白鳥伝説」に基づいているからです。古事記と日本書紀では異なる部分もありますが、以下に白鳥伝
 説の大まかな要旨を紹介します。
 
 日本武尊は、天皇の命により九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えみし)と戦いますが、東国遠征からの帰る途
中伊吹山(滋賀県)の神との戦いに敗れます。傷を負いながらも大和の国へ帰ろうとしますが、伊勢の国
の能褒野
(のぼの)(三重県亀山市)にたどり着いた時には一歩も前に進めず、ついに力尽きて亡くなり、この
地に葬られました。
 やがて日本武尊の魂は白鳥に姿を変えて飛び立ち、大和の国へと向かいます。大和の琴弾原
(ことひきのはら)
(奈良県御所市)を経て河内の国の旧市邑(ふるいちのむら)(大阪府羽曳野市)に舞い降り、そこにも陵(みささぎ)が築
かれますが、その後再び白鳥と化して、埴生野
(はにゅうの)に向かって羽を曳くように天高く飛び去って行っ
たといいます。
  この話によって、初めに葬られた所と白鳥となって舞い降りた2ヵ所に、日本武尊の魂が眠っているというこ
 とになったわけです。旧市邑は、明治期以前からあった河内国古市村とされ、現在古市古墳群と呼ばれる多くの
 古墳の中から前の山古墳が白鳥陵に比定されたのです。

 今に続く地名
  後世、第2次大戦後の時代になって古市村は合併をくり返し、古市町さらに南大阪町となりま
した。そして、
 1959(昭和34)年に市制を施行するに当たり、再びこの白鳥伝説が登場します。その昔「羽を曳くように白鳥が飛
 び立った野」にできる市ということで、
羽曳野市(はびきのし)」が誕生したのです。古代伝説ロマンに由来する命名
 だったわけです。ちなみに、「埴生野」という地名は、現在の羽曳野市内で白鳥陵の2kmほど南西に地区名とし
 て存在しています「埴生」という地名は奈良期から登場する地名で、日本書紀にも何度か出てきます。近世に
 は「埴生野新田」が開かれ、近代では「埴生村」となりますが、埴生野という大字
(おおあざ)名は市制となった今も
 生き続けています。

 日本武尊とは
  戦後、自由な歴史研究が進む中で、『古事記』や『日本書紀』について様々な視点から問題点の指摘や解釈が
 展開されてきました。そういう中で、日本武尊についてもその実在性を疑問視する学説が数多く提起されてきま
 した。全くの架空の存在だとする説、実在の皇子をモデルとしつつフィクション化されたという説、複数の皇子
 の行動を一人の皇子の活躍として象徴的に存在させたとみる説など、諸説入り乱れています。架空の人物だとす
 ると、他の天皇や皇子の実在性にも影響してきます。未だに定説にまで至っていないのは、その古代史への影響
 の大きさの故でしょう。一方で、伊勢の能褒野とか、大和の琴弾原、河内の旧市邑という特定の地名が登場する
 背景には、何かしらの出来事があったとみることもでき、それらの関係には興味深いものがあります。

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