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藤井寺南小学校の歴史 |
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地図で見る校区の移り変わり | ||
◆◆◆1960(昭和35)年4月◆◆◆ = 藤井寺南小学校が開校 = |
◆◆◆1968(昭和43)年4月◆◆◆ = 新住居表示の施行 = |
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4月1日、美陵町立藤井寺南小学校が開校しました。藤井寺町と道明寺 町の合併で前年4月に発足した藤井寺道明寺町は、この年の1月1日に美 陵町に改称されました。 藤井寺小学校区を近鉄線で南北に分割し、南側区域を藤南小通学区域と しました。校舎・敷地は町立中学校が移転した跡地が利用されました。現 在の藤井寺西小学校がある場所です。ここを本校として、野中地区の野中 宮山古墳内に野中分校が設置されました。 2月には春日丘団地の入居が始まりました。藤井寺団地の入居開始は昭 和32年です。藤ヶ丘住宅地もでき、地域の児童数は急増していました。 校区の様子を見ると、現在は姿を消している小古墳やため池がいくつも あることがわかります。また、現在は市内中心幹線となっている大阪外環 状線や府道31号バイパス線などは、まだその計画もない時期でした。 |
この年の1月1日、市内で初の新住居表示が施行されました。その対象 地区は市内西部の近鉄線以南で、藤南小校区が全て含まれます。藤井寺市 で初めて「丁目」の付く住所が誕生しました。また、従来の地区を分割し てできた東藤井寺町・西古室・陵南町・青山・藤井寺公団・春日丘公団と いう新しい地区名も誕生しました。(恵美坂・岡・御舟町・沢田の住居表示 は昭和44年1月の施行)。 藤井寺南小学校は米口池を埋め立てしてできた新校舎に移転し、野中分 校も閉校していました。となりの升池も住宅地に変わりました。 この時期は、日本万国博覧会の大阪開催に向けて、各地で幹線道路の建 設が急ピッチで進められていました。藤井寺市内でも、西名阪道路・大阪 外環状線・府道堺羽曳野線バイパスの建設が真っ最中でした。完成に先が けて地区の分割や丁目境界の制定が新設道路に合わせて行われています。 |
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◆◆◆1970(昭和45)年4月◆◆◆ = 藤井寺西小学校が分離・開校 = |
◆◆◆現在のようす◆◆◆ | |
4月1日、藤井寺西小学校が開校しました。藤井寺南小学校が最初に開 校した場所に新しく校舎が建てられました。藤南小校区をほぼ南北に分割 する形で新しい通学区域ができました。その結果、藤井寺南小学校は校区 の最北部近くに位置することになりました。 藤井寺・西古室の両地区では、丁目によって通学区域が分割されました。 この様子を見ると、新住居表示は幹線道路の新設と連動して決められてい ることがわかります。藤南小校区で最初に住居表示が施行されたのも、通 学区域を分割する必要から急がれたのではないかと思われます。 西古室地区はもともと古室地区の一部で、道明寺小学校区でした。住居 表示で分割されたのち、昭和44年度に一度藤南小校区に編入され、その後 藤井寺西小学校の開校で1丁目だけが分離されています。 この年の3月には大阪での日本万国博覧会が開幕しています。間に合わ せるように直前に西名阪道路・大阪外環状線・府道堺羽曳野線が開通しま した。外環状線の応神陵前−軽里北の本線区間は、はさみ山遺跡の発掘調 査で大幅に遅れ、開通したのは10年後の1980(昭和55)年のことでした。 この後の20数年間、校区内にも次々と公共施設がつくられていきました。 |
通学区域そのものは、昭和45年から変わっていません。当時に比べ、児 童数は少子化によって両校ともかなり減っています。二つのUR団地は建 て替え事業が行われ、新町名「さくら町」「春日丘新町」が誕生しました。 幹線道路網も完成し、校区の中央部で3本の国府道が交差する形になり ました。その中心である野中交差点は、1997年に跨道橋が完成し、市内で 唯一の道路立体交差点となりました。 昭和35年の開校当時に見られたものがいくつも消えてしまいました。古 墳では、アリ山古墳、藤の森古墳・蕃上山古墳・岡古墳がなくなりました。 ため池では、米口池・升池・新池(野中)・堀川・新シ池・仏供田池・苅 田池が消えています。また、新池・上田池や野中宮山古墳周濠はその一部 が埋め立てられて公共施設の建設に利用されました。藤南小校区の土地は 市内で最も海抜が高く、昔からため池の多い地域ですが、市街化が進んだ ことで農地の減少と比例するように、ため池が次々と消えていきました。 開校以来60余年。かつて田園地帯であったこの地域は、すっかり都市 化して変ぼう著しいものがあります。写真で見ると一目瞭然です。別ペー ジの「空から見る校区とそのまわり」で紹介しています。 |
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