野中宮山古墳 (のなかみややまこふん) |
所 在 地 | 大阪府藤井寺市野中(のなか)2丁目 | |||||
最寄り駅と道のり | 近鉄南大阪線・古市(ふるいち)駅より北西へ約1.2km(後円部南東入口まで) 徒歩約19分 近鉄南大阪線・藤井寺駅より南へ約1.9km(西側入口まで) 徒歩約30分 |
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推定築造時期 | 5世紀前半 | 出 土 品 |
埴 輪 | 円筒埴輪、形象埴輪(家・蓋(きぬがさ)・盾・囲(かこい)形、水鳥 ・鶏・猪・馬形、壺形) |
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古 墳 形 | 前方後円墳 | 石製品 | 滑石製刀子(とうす)、魚形土製品 | |||
墳 丘 規 模 (m) |
墳 丘 長 | 154 | 土 器 | 土師器 | ||
前方部 | 幅 | 90 | その他 | 12世紀中頃〜14世紀の土器や木製品 | ||
高さ | 10.1 | 埋葬施設 | 埋葬施設の調査はされていないが、後円部頂に板石 (いたいし)が散乱していることから、竪穴式石槨(せっかく) が存在すると推測される。 |
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後円部 | 径 | 100 | ||||
頂高 | 14.1 | |||||
その他の造り | 前方部の南側に方形で低い大型造出し(つくりだし)が張り出している。北側には造出しは無い。 |
桜が満開の野中宮山古墳(北西より) 右下の地面にはかつて藤井寺南幼稚園野中 分園があった。後方右側の森は墓山古墳。さ らに後方は金剛山地。左上最後方は二上山。 |
真上から見た野中宮山古墳 後円部頂にある のは野中神社。前方部にあるのは元藤井寺南幼稚 園野中分園の園舎と園庭。周濠の南側部分は埋め 立てられて野中宮山児童公園となっている。 |
地域の人々に利用されてきた古墳 この古墳の山は伝承名で「足塚」と呼ばれており、別名・足塚古墳ともいいます。近世以降の後世に寺や神社、 学校・幼稚園に場所が利用されて形状はかなり崩れており、築造当初の墳丘の形はよくわかりません。 今までの調査でわかった形は、三段造りの柄鏡(えかがみ)形で、堤もこれに沿って前方後円形になっており、また、 前方部が後円部よりも約4m低くなっていて幅も狭いなど、古い形態を残した古墳であるとみられます。墳丘長は 154mで、総長は200mです。 出土品としては、円筒埴輪を初めとして、家・蓋・盾・囲形や各種の動物形などの多量の埴輪があります。これ らの埴輪から、5世紀前半以前に造られたことがわかります。また濠の中からは平安時代〜鎌倉時代位に使われて いた土器が多く出土し、この時期にゴミ捨て場になっていたことがわかります。 1984(昭和59)年に行われた墳丘南側の調査で、前方部の南側に張り出す方形で低い造出しが発見されました。高 さ1m、幅27m、前方部からの突出15mという大型造出しです。この造出しには、小型円筒埴輪列や壺形埴輪列、水 鳥形埴輪列などがありました。翌昭和60年には前方部墳丘端と堤の調査が行われ、前方部から堤まで8mであること が確認されました。この付近は、以前からお寺や学校の用地として利用されてきており、形状がはっきりしていな かった部分です。 2004(平成16)年には墳丘北側と後円部東側の調査が行われ、前方部北側には南側のような大型造出しの無いこと がわかりました。この調査で北側の前方部くびれ部からは、40個体ほどの円筒埴輪列が検出されています。 現在は周濠の3分の2ほどが埋め立てられており、南側には野中宮山児童公園ができていて、藤井寺南小学校の 子どもたちのよい遊び場となっています。 古代寺院にも利用 公園に隣接する前方部の大部分と周濠跡の一部は、2020年まで藤井寺南幼稚園野中分園の敷地となっていまし た。明治期になるまではこの場所に満願寺という寺があり、神仏分離令によって明治5年に廃寺になりました。も ともとこの辺りは、7世紀頃の創建と推定される古代寺院「野中満願寺」が在った場所で、調査の結果から野中宮 山古墳の西側に隣接する一角が推定伽藍配置の場所と推定されています。江戸時代に出版された『河内名所圖會(図 会)』には、「満願寺」の項に次のような説明が載っています。「野中村にあり。野中山と号す。真言宗。聖徳太子 御建営の地なり。本尊薬師仏 座像、壱尺弐寸。又、十一面観音立像、壱尺八寸。鎮守、牛頭(ごず)天王、此所の本 居神とす。…(以下略)」。 明治期以降に小学校の分校や分教場が置かれましたが、藤井寺南小学校が現在地の校舎に統合されて以後は、幼 稚園分園に利用されてきました。藤井寺南幼稚園野中分園は、2020(令和2)年3月末で閉園となり、本園に統合され ました。同年冬には園舎の解体工事も行われました。 また、後円部の山上には野中地区の氏神である野中神社があり、春は桜のきれいな所です。「宮山」という名前 もここからきています。 野中宮山古墳と野中村 この野中宮山古墳を囲む辺り一帯は、昔は「野中村」といいました。今も「野中」の地区名として残っており、 古墳の南側にある旧街道を中心とする地域が村の中心の集落でした。現在の野中2丁目・3丁目にまたがる地域で す。野中村の広さはかなりありましたが、集落はここだけで、二つの寺もここにあります。集落以外は田畑とため 池、古墳だけで、現代に至っても戦後すぐの頃まではその基本型は変わっていませんでした。 藤井寺南小学校区の大部分が野中村だった地域で、かつて村の大部分を占めていた田畑の多くが姿を変えました。 今では多くが住宅地や商業地に変わり、すっかり市街化が進んできています。地区も分割されて、新しい地区名が 誕生しました。そんな中で、野中宮山古墳は氏神様の祀られた「宮山」として、今でも地区の人々に大切に守られ 続けています。 |
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