墓山古墳
(はかやまこふん)
《 応神天皇陵ほ号陪冢(ばいちょう)
所   在   地 大阪府羽曳野(はびきの)市白鳥(はくちょう)3丁
最寄り駅と道のり 近鉄南大阪線・古市(ふるいち)駅より北西へ約850m(後円部東側周濠まで) 徒歩約13
推定築造時期 5世紀前半




埴 輪 円筒埴輪
形象埴輪(家・蓋
(きぬがさ)・短甲(たんこう)・靫(ゆぎ)・盾形など)
古   墳   形 前方後円墳




(m)
 
墳 丘 長   225
前方部   153 石製品 滑石製勾玉(まがたま)33点 ほかに滑石製模造品が多数
高さ    19 埋葬施設 詳細については不明であるが、竪穴式石槨(せっかく)・長持
(ながもちがた)石棺の存在を示す後円部墳頂のくぼみや蓋
(ふたいし)のあったことが伝えられている。
後円部   135
高さ    21 その他の造り 三段構成の墳丘
くびれ部の両側に造出し(つくりだし)
頂高    49.2
南から見た墓山古墳 真上から見た墓山古墳
南から見た墓山古墳(南西より)
  濠の南側の一部と前方部南西側の堤が、墓地に
 利用されている。周濠は狭く、水があるのは南側
 の一部と後円部側の半分位である。
 
墓地に利用されたお墓
 古墳はもともと古代の大王家や豪族のお墓なので、わざわ
ざ「墓山」と名付けられているのは少し変な感じがします。
これは、この古墳の堤や周濠の一部が昔から墓地に利用され
真上から見た墓山古墳    墓地に喰い込まれ
  ている様子がよくわかる。左下の茂みは浄元寺山
  
(じょうがんじやま)古墳、右は向墓山(むこうばかやま)古墳、
  上は野中
(のなか)古墳。それぞれ方墳である。
  右上に見える建物は、羽曳野市役所
てきたことによるものと思われます。
 墓山古墳は現在「応神天皇陵ほ号陪冢」に治定されており、宮内庁の管理下にあります。にもかかわらず、古墳
の一部が墓地に使用され続けているということは、治定されるよりもずっと以前から、墓地として利用されるような
村の共有地や民有地であったということになります。上の写真でわかる2ヵ所の墓地の内、前方部西側の南西角にあ
る墓地は旧野中村(藤井寺市)の墓地として、南側の周濠にある墓地は旧古市村
(ふるいちむら)(羽曳野市)の墓地として営ま
れてきました。古墳の西側と北側の周濠の外周が二つの村の境界であったのです。そのまま現在の市の境界ともなっ
ており、藤井寺南小学校の校区の境界でもあります。
陪冢を持つ陪冢
 もう一つ、墓山古墳の変わっている点があります。航空写真で古市古墳群を見ると、真ん中
辺りに巨大な誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神天皇陵)が存在するので、墓山古墳などは小さ
い古墳のような錯覚を起こしそうですが、墓山古墳も墳丘長225mもある立派な大型前方後円
墳です。それでも応神天皇陵の陪冢ということになっています。
 ところが、この墓山古墳にも陪冢と考えられる古墳が存在するのです。上の右側写真でわか
るように、幅広い堤の外周に接するように浄元寺山
(じょうがんじやま)古墳(西側)、向墓山(むこうばか
やま)
古墳(東側)、野中(のなか)古墳(北側)があります。また、浄元寺山古墳のすぐ南側には、埋没
古墳の西墓山古墳が発掘調査で見つかりました。野中古墳と西墓山古墳には
膨大な量の鉄製
武器・武具・農具
などが納められていました。こんな陪冢を持つ大型前方後円墳の墓山古墳を、
他の古墳の陪冢とするには疑問があります。大王かそれに準ずる最有力層に属する人物の墓と
する考え方が有力になっています。
野中古墳出土の短甲とかぶと
野中古墳出土の短甲
と眉庇付冑(まびさしつ
きかぶと)

 (シュラホール展示)
古市古墳群5番目の大きさ
 墓山古墳は、古市古墳群のほぼ中央部の洪積段丘の低い台地上に築かれていて古墳群中5番目の墳丘長の大きさ
を持つ大型前方後円墳です。
 三段構成でくびれの両側に造り出しを持つ墳丘は
市野山古墳(允恭天皇陵)の墳丘と同形同大であることが知られ
ています。幅が狭くて深い周濠と幅広い堤を備えたその姿は、古墳時代中期の大形前方後円墳の典型を示
しています。
 周濠は幅
18m前後で、南西部の隅部の発掘調査では、堤の外側斜面に葺石(ふきいし)の施されていることが明らかに
なっています。周濠の外側には、幅
30m前後の外堤が存在していますが、現在は住宅地や墓地、市の駐車場などにな
っています。
 墳丘斜面にも葺石が施され、墳丘と中段の平坦面には円筒埴輪列が配置されているこ
とが、明治時代に濱田耕作氏
によって報告されています。また、各種の形象埴輪も出土しており、宮内庁と京都大学に所蔵されています
。これら
の埴輪には黒斑
が有るものと無いものとがあり窖窯(あながま)を導入する時期の前後に製作されたと考えられます。
 埋葬施設の詳細は不明ですが、明治時代には後円部頂に竪穴式石槨
(せっかく)の存在を示す2箇所のくぼみがあったこ
と、格子
(こうし)状の彫り込みがある竜山石(たつやまいし)製の長持形石棺の蓋石が露出していたことが伝えられています。
 墓山古墳は、墳丘の形や出土した埴輪の特徴から5世紀前半の築造であると推定されています。

「古墳のいろいろ」    「古市古墳群」    「空から見る古市古墳群」
藤井寺市HP「ライブラリー古市古墳群」
トップへ  藤井寺市のご案内