空から見る学校のまわり |
南から北方を見る 2019(令和元)年11月12日 藤井寺南小学校創立60周年記念撮影写真より |
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2019(令和元)年10月20日、
藤井寺南小学校は学校創立60周年を迎えました。それを記念して撮影されたのが上 の航空写真です。校区を撮影したものから学校の周辺を切り出しました。校庭の真ん中に見えるリングの形は全 児童が整列してつくった校章です。 学校の周りはすっかり市街化していますが、今の場所に新しく校舎ができた頃は、現在とはまったく違う景色 が広がっていました。下の航空写真は上の写真の時から57年前に撮影されたもので、この間の経過は藤井寺南小 学校の歴史とほぼ重なります。学校の敷地となった場所は元はため池でした。周辺には広い水田が見えています。 水田地帯の向こうには、5年前に入居の始まった藤井寺団地の建物が並んでいます。高い建物の無かった当時、 この住宅群は周辺からよく見える目立つ建物でした。現在は建て替え事業によってより高層の建物に変わってい ます。広く見えていた水田は、探さなければわからないほど少ない存在となってしまいました。 |
今の校舎ができる前の様子 |
今の校舎ができる前の三ツ池や旧藤井寺南小学校校舎の周辺(南西より) 1962(昭和37)年12月3日 現在の藤井寺南小学校の場所は、当時は周りにため池と水田が広がっていた。高層建物はなく、 藤井寺団地がの高さが目立つ。 『古墳の航空大観』(末永雅雄著 学生社 1975年)より 文字入れ等一部加工 |
藤井寺南小学校が現在の場所に建設される2年前の三ツ池付近の様子です。現在の学校敷地や接する道路の元と なった形状がよくわかります。この写真だけを見ていると、まさかここが学校になるとは、という感じがします。 写真が撮影された1962(昭和37)年当時には、すでに藤井寺南小学校は開校していました。しかし、新しい校地や 校舎は準備ができておらず、美陵(みささぎ)町立中学校(現藤井寺中学校)が新築校舎へ移転した跡地の施設を利用して 開校していました。写真の左手にその校舎施設が見えています。当時はすべて木造の校舎でした。現在はこの場所 には藤井寺西小学校が存在します。児童数が増加した藤井寺南小学校の校区を分割し、分離・新設で1970(昭和45) 年に開校した藤井寺市5番目の小学校です。 「三ツ池」という名は三つの池の総称として用いられた通称で、それぞれの池には個別の名前があります。学校 の敷地になったのは、米口池(こめぐちいけ)ですが、西側にある升池(ますいけ)も同時に埋め立てられ、現在学校の西側に並 ぶ住宅地となりました。 新池(しんいけ)だけが残り、学校ができてからも釣り堀に利用されたりしていましたが、後に生涯学習センター用地 として一部が埋め立てられ、現在の姿に改修されました。 「米口池」の文字は、近年なって用いられてきたもので、明治期の小字(こあざ)名や江戸期の古地図では、「込口池」 となっています。「升池」も、多くの古地図では、「枡池」の文字が用いられています。 学校となる米口池から府道の間は水田地帯となっていて、道路は細い農道やあぜ道しかありません。現在ある学 校北側の道路や、学校からさくら町へ通じる道路などは、学校建設に伴って町道として整備されていったものです。 学校に隣接する変電所は、すでにこの時点でできていたことがわかります。電話局も、一般家庭の加入電話の需 要拡大に合わせて、藤井寺市・羽曳野市などをサービスエリアとしてこの年の2月に完成したばかりでした。 藤井寺団地(現・UR都市機構「サンヴァリエ藤井寺」)の全景も、なくなってしまった今ではなつかしい姿です。藤井 寺団地は、昭和32年に入居が開始されています。日本住宅公団(現・UR都市機構)の設立が和昭30年ですから、こ の団地は最も早い時期に建設された団地の一つであることがわかります。市内では、3年後に春日丘団地(現・「サン ヴァリエ春日丘」)もできています。大都市近郊に次々と小規模団地が造られていった時期でした。 5階建ての建物が並ぶ団地や、整然と家が並ぶ新住宅街、変電所や電話局など、進みつつある高度経済成長の社 会を支えるものが、次々とこの地域に登場してきた時期でもありました。新校地の藤井寺南小学校で北館・南館に 次いで体育館が完成した昭和42年には、同じく校区内に藤井寺郵便局が完成しています。新設の集配局で、羽曳野 市や市制を施行した藤井寺市の人口増加に伴う郵便需要の増大に備えたものでした。 こうしてこの地域の都市化が始まり、人口急増の象徴として、第三の小学校である「藤井寺南小学校」が誕生し たのでした。現在の藤井寺市域の中では、明治6年以来の80数年間、小学校は基本的にずっと藤井寺小学校と道明 寺(どうみょうじ)小学校の2校体制だったのです。 |