誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん) |
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《 応神(おうじん)天皇恵我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)・国史跡(外濠・外堤) 》 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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南より見た誉田御廟山古墳 左側の西側内堤の外 側に沿って見える緑地は外濠の跡地。左端の小古墳は 東山古墳で、右上の隣接古墳は二ツ塚古墳。 |
誉田御廟山古墳の外濠跡 写真左端が内堤の北西の角。 外濠跡地は、その西側の外堤跡地と共に国史跡に 指定れている。かなりの幅のあることがわかる。 |
最大の体積を持つ巨大古墳 誉田御廟山古墳は所在地は羽曳野市ですが、藤井寺南小学校区のす ぐ東に隣接しています。総長700mを越える巨大な前方後円墳で、応 神天皇陵に治定されています。墳丘長は425mで、堺市の大仙古墳(仁 徳天皇陵)に次いで2番目の大きさですが、表面積や体積(143万m3以 上)では仁徳陵を上回り、全国一の巨大前方後円墳です。古市古墳群の 中でも、とびぬけた大きさです。 |
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真上から見た誉田御廟山古墳 東側の濠と堤がくびれており、そこに陪冢(二ツ塚古墳)の接している 様子がよくわかる。西側の堤の外側に見える細長い地形が外濠・外堤跡。 堤の北辺に接している陪冢は誉田丸山古墳。さらに北にある前方後円 墳は大鳥塚古墳。 西側にある方形墳は東山古墳。左端に見える道路は国道170号(大阪外環 状線)。右上に斜めに通るのは西名阪自動車道。その北側に見える円形は 盾塚古墳公園。府営住宅の中に盾塚古墳の形が復元された。 |
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大量の円筒埴輪 墳丘は三段構成で、くびれ部両側に方壇状の造出しが設けられています。墳丘と内堤の内外の法面には葺石(ふき いし)が施されており、墳丘の平坦部と内堤・外堤には円筒埴輪が巡らされています。円筒埴輪の総数は2万本以上 と推定されています。中には、口径50cm、高さ1mを越える大型のものも使用されていました。 墳丘内部は調査されていないので不明ですが、竪穴(たてあな)式石槨(せっかく)に長持形石棺(ながもちがたせっかん)が納められて いると考えられています。石槨や石棺の一部が露出していたと伝えられているからです。古墳の南側にある誉田 (こんだ)八幡宮に、竪穴式石槨と長持形石棺の一部と推定される石が残されています。 航空写真や測量図を見ると、墳丘前方部の西側が大きく崩れているのがわかります。以前には築城など人為的に 崩されたとする説もありましたが、近年の活断層研究によって、地震で崩落したことが指摘されてきました。古墳 を南北に縦断するように断層線の走っていることがわかったのです。誉田断層と呼ばれています。この辺りから北 方の藤井寺市古室・沢田・林地区にかけて、活断層の段差地形が残っています。地震考古学者の寒川旭氏が1510(永正 7)年の摂津河内地震による崩落を指摘されたいましたが、後に寒川氏はその見解を撤回されています。誉田断層が 動いたのは、もっはるかに古い時代のことだと見解を変えられました。謎が残る墳丘の崩落です。 残る外濠・外堤の跡地 墳丘の周りには二重の濠と堤があり、内濠の幅は一部狭い部分があるものの、約60m近くあります。また、幅が 約60mある内堤の上部は35mの幅があります。外濠・外堤の内、その跡地と見られる地形が西側に残っており、 「応神天皇陵古墳外濠外堤」として国史跡に指定されています。この部分の外濠幅は約40mあり、外堤幅は約20 mです。外濠・外堤の跡地は史跡として保存されており、現地で間近に見ることができます。 東側の内濠と内堤が大きくくびれており、そのくびれ部に接して二ツ塚古墳があります。これは、二ツ塚古墳が 先に造られていたために、この部分の濠と堤を屈曲させて誉田御廟山古墳を築造したと考えられています。そのた めに、東側の外濠は西側に比べてかなり狭くなっています。2007年(平成19年)の羽曳野市教育委員会による二ツ塚 古墳東側の発掘調査で、誉田御廟山古墳の東側の外濠幅は約17m、外堤幅は約29mであることがわかりました。 また、この調査結果から、外濠は二ツ塚古墳の濠と共有していたと考えられます。 多くの周辺古墳と陪冢 二ツ塚古墳のほかにも周辺には多くの古墳があります。その内、東山古墳、アリ(蟻)山古墳(消滅)、誉田丸山 古墳、栗塚古墳、東馬塚古墳は、推定される築造時期から誉田御廟山古墳の陪冢(ばいちょう)と考えられています。 アリ山古墳はすでに墳丘が消滅していますが、東西約3m、南北約1.4mの土壙(どこう)からは、2,600点近くにも 及ぶ大量の鉄器が3層に分かれて出土したことがよく知られています。また、誉田丸山古墳からは、国宝に指定さ れて有名な「金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ)」2具分が出土しています。 |
後円部頂にあった仏堂 江戸時代には、後円部頂に六角形の仏堂があり、これは後円部の南側にある誉田八幡宮の奧の院でした。八幡宮 から周濠を渡ることができ、さらに陵上の仏堂に登る階段がありました。神仏一体となった信仰の場であったので す。もともと八幡神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされていました。平安時代からの神 |
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仏習合により、仏教とも結びついていきました。 享和元年(1801年)に刊行された『河内名所圖會 (図会)』の「應神天皇陵」の絵図の中には、後円 部の麓から一直線に陵頂に上る階段と陵上の六角 堂が描かれています。さらに、応神天皇陵につい ての説明本文の中には、当時の様子を知ることの できる記述が見られます。 「…陵上に、近年、六角の宝殿(ほうでん)を建る。 外側にも亦、六角の塗塀(ぬりへい)を立たり。…(中 略)…。陵道一町計、左右に桜を植て、石灯炉(いし とうろ)二十基、其下に宣命場中門(せんみょうじょうちゅうも ん)あり。これより、雑人(ぞうにん)、陵上へ登る事を 禁ず。過って昇る時は神祟(しんそう)あり。四辺に、 古松繁茂し、赤土壺(はにつぼ)、山陵に多く陻(うず)め り。蓋(けだし)、これは殉死の代(かわり)として、宦人 (かんにん)の名をしるしてこゝに埋む。一説には、こ れに雨水を湛(たた)えて、山陵の崩れざる用意と聞 |
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『河内名所圖會』に載っている「應神天皇陵」の絵図 南東から見た後円部の様子。左端に見える神社が誉田八幡宮。左下の 街道は東高野街道。実際の街道よりも広い道として描かれている。 (左右2ページの見開き絵図を合成しいてます。) |
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へし。」とあります。「山陵に多く埋められていた赤土壺」とは、円筒埴輪列のことだとわかります。また、陵上 の六角堂へは、一般人が登ることは禁止されていたこともわかります。祭礼の時に神職や社僧が登ったものと思わ れます。 ところが、これらの神仏一体信仰の形も、「文久の修陵」に始まる幕末の陵墓修復事業に合わせた国家祭祀の整 備・再編により、排除されてしまいます。国学に基づく尊皇思想の高まりの影響もあり、仏教的なものが一掃され ていきました。各地の天皇陵には拝所が設けられて、鳥居が建てられました。応神天皇陵でも、陵上の仏堂や階段 が撤去され、周濠も渡ることはできなくなりました。拝所は、八幡宮とは反対側となる前方部の北側に造られまし た。さらに、明治時代の初期には廃仏毀釈の風が吹き荒れて、神宮寺として誉田八幡宮に在った長野山護国寺は、 大半の建物が壊されてしまいました。現存するのは南大門だけです。 |
「古墳のいろいろ」 「古市古墳群」 「空から見る古市古墳群」 「空から見る校区とそのまわり」 | ||