1.藤井寺市の地理
  藤井寺市は大阪府の南東部に位置しており、府の行政区域としては、6市3町村からなる南河内
 
(みなみかわち)地区に属していて、地区内では最も北にある市です。面積約8.9kuという、たいへん小
 さい市で、大阪府内の
33市の中で最も面積の小さい市です。
  地形的には、羽曳野
(はびきの)丘陵の北端となる洪積台地・中位段丘にあり、北側へわずかに傾いて
 いるものの、ほぼ平らな土地です。市の北部に接して大和川が、東には石川が流れ、本市の北東部
 で合流しています。
  この地理的条件が、この地を古代遺跡の町としていくことになり、現代に至っては、人口密度の
 高い衛星住宅都市に変化させていくもととなるのです。
  古代から近世にかけては、大和地方(奈良県)と難波
(なにわ)の津(港)を結ぶ大和川舟運の中継地とな
 り、また、古街道である長尾街道・東高野街道・竹ノ内街道がこの地域を通り、水陸両面での交通
 の要地となっていったのです。
  現在も、近畿日本鉄道の南大阪線道明寺線、高速道路の西名阪自動車道、国道170号(大阪
 外環状線)が市の中央部を通り、そこに3本の主要府道が交差しています。さらに、市の中心部に
 藤井寺インターチェンジが設けられるなど、交通の要地となっています。  藤井寺市の地図へ


2.藤井寺市の歴史
 古くは旧石器時代
  他の地域と行き来しやすいこの地は、古くから人々の住むところとなり、現在も調査の続く数多
 くの古代遺跡古墳群が、この地域の歴史の古さを象徴してい
ます。市内にいくつも見られる小山
 のような森は、古代の大型前方後円墳で、本市を象徴する景観の一つでもあります。
  
国府(こう)遺跡は、旧石器時代から縄文・弥生・古墳時代、さらには中世へと続く複合遺跡で、約
 2万年前の旧石器を初め、多数の縄文人骨や石器・土器などの出土で知られ、旧石器・縄文時代研
 究の記念碑的遺跡となっています。現在、国の史跡指定を受
け、その主要部分が保存されています。
 また、この地は律令時代に「河内国府」の置かれた地でもあり、村名として残っていた「国府
(こう)
 の名が遺跡名につけられました。

 
古墳の時代−古市古墳群
  5世紀に築かれた大型前方後円墳を中心として、市内では現在までに大小約90基の古墳の存在
 が確認されており、27基が現存しています。これらの古墳は、隣接する羽曳野市の多くの古墳と
 一体の存在として
、「古市(ふるいち)古墳群」と呼ばれ、全国有数の古墳群の一つです。古墳群全体で
 は、現在までのところ約
130基の古墳が認められています藤井寺市内の古墳は古墳群のほぼ7割
 に当たり、古墳時代文化や古代王朝の成立・変遷の研究に多くの手がかりを提供してきています。
  奈良時代には、河内国府が置かれて河内国の中心となりま
したが、現在では国府(こう)の地区名にそ
 の名残りをとどめています。

 
河内国府と古代寺院
  7世紀頃からは、河内の国と大和の国を結ぶ長尾街道や竹ノ内街道に沿う要地として栄
えました。
 また、渡来系氏族によって仏教文化ももたらされ、葛井寺(ふじいでら)道明寺
(どうみょうじ)が建てられま
 した。この二大寺院は、後々まで、地域のまとまりや地名の移り変わりに関して、大きな存在とな
 っていきます。ほかにも、
衣縫(いぬい)廃寺船橋(ふなはし)廃寺拝志(はやし)廃寺など、河内国志紀郡
 に集中的に造られた古代寺院のいくつもが、藤井寺市域に存在しています。
  国府や多くの寺院があったこの地域は、多くの人々が行き交う場所となり、国府の近くに河内国
 の中心となる市
(いち)である餌香市(えがのいち)の置かれたことが、日本書記などに登場します。河内
 国での政治・経済の中心地として、大いににぎわった様子が想像されます。当時にあっては、かな
 りの“都会”だったことでしょう。

 
中世から近世
  南北朝時代から戦国時代にかけては
楠木一族や畠山氏が現在の津堂城山古墳の上に、「小山城
 を築きました。そして、戦国時代には三好氏の城下町となるなど発展しましたが、戦乱にも見舞わ
 れ、葛井寺が戦火で焼失しています。
  江戸時代の本市域の村々は、志紀郡の9村、丹南郡の3村、丹北郡の2村の14ヵ村が
ありました。
 領地の支配体制は複雑で、幕府領・藩領・旗本領、さらには道明寺の寺領、
誉田(こんだ)八幡宮(現・
 羽曳野市)の社領に細分されていました。
 近代以降の町村合併
  近代に入ってから今日の藤井寺市誕生までは、めまぐるしい村落合併の道をたどってい
ます。(別
 表「藤井寺市ができるまで」参照)
  まず、江戸時代の14か村が明治22年(1889年)の合併で、長野村(後に藤井寺村)・小山村・道明寺
 村・沢田村の4村となりました。さら
に、翌明治23年には道明寺村と沢田村が道明寺村に、大正4
 年には藤井寺村と小山村が藤井寺村
に、それぞれ合併改称しました。道明寺を中心とした道明寺村、
 葛井寺を中心とした藤井寺村、という二つのブロックにまとまり、今日の藤井寺市の元となり
ます。
  昭和3年(1928年)に藤井寺町、同26年(1951年)に道明寺町と、それぞれ町制に変わりました。
 同34年(1959年)には両地区が初めて一つに合併して現在の市域を形成し、藤井寺道明寺町ができ
 ました。

 
人口急増と住宅都市化
  翌35年に美陵町
(みささぎちょう)と改称、その後人口の急増が始まり、4万人を越えた昭和41(1966年)
 年の11月1日には、市制を施行して今日の藤井寺市が誕生しました。
  この間、大正12年(1923年)には阿部野橋〜道明寺間が大阪鉄道(現
近鉄南大阪線)によって全通
 し、以後この地の住宅開発が進んでいく元となります。昭和3年(1928年)には藤井寺球場
もでき、
 この前後の数年で大きな人口増加がありました。
  2度目の人口増加の波は、昭和30年頃から50年頃にかけての高度経済成長期です。この間の人口
 増加は著しく、典型的な郊外住宅都市としてその姿を急速に変えていきまし
た。いわゆる人口のド
 ーナツ化現象の時期であり、この20年ほどの間で、人口は3倍にも増えています。かつての農村地
 帯は、すっかり都市に変貌していったのです。
  面積の小さい本市にあっては、この人口急増は急激に人口密度を高め、現在では大阪府内の市町
 村で9番目という高い人口密度になっています。

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