大和川と石川 (やまとがわ) (いしかわ) |
||
目じるしとなる川 藤井寺市の北側と東側に接して、二つの大きな川が 流れています。北に流れるのは大和川で、東に流れる のは石川です。二つの川は、市の北東部で合流し、そ こから西へ向かって進み、堺市で大阪弯に流れ出ます。 二つの川の合流点に接して藤井寺市があるため、地 図や航空写真で藤井寺市の位置を見つけるときに、こ の二つの川がちょうどよい目印になります。 奈良盆地から流れ来る大和川は、大阪府内で淀川に 次いで2番目に大きな川であり、地図ではすぐに見つ けることができます。石川は南河内地区の真ん中を南 北に縦断して大和川に合流する川です。 |
||
市の境となる川 二つの川は、また、隣接する市との境界にもなっています。北側には八尾(やお)市域と柏原(かしわら)市域が、東側には柏 原市域が川を挟んで接しています。石川は、おおむね川の中ほどが柏原市との境界となっていますが、大和川の方は少 し事情が異なります。市の地図を見るとわかりますが、大和川は必ずしも川の真ん中が市の境界とはなっていません。 大和川の北側にも藤井寺市域の部分があり、飛び地となっています。逆に、川の南側にも八尾市域の部分があります。 川をまたいで、デコボコ境界線になっているのです。これは、藤井寺市の元であった村々が先に存在していて、後から 村の境界に関係なく川ができたために起きたことなのです。つまり、大和川は造られた人工の川なのです。 もともと流れていた大和川は、石川との合流点から北へ向かって流れていました。写真の点線がその跡を示していま す。今でも地図や航空写真で、旧大和川の跡の多くをたどることができます。現在の大和川は、今から300年ほど前の 江戸時代、1704年(宝永元年)に完成しています。その新しい川の出発点となったのが、今の藤井寺市の北東部、石川 との合流点なのです。この新しい川の建設事業は、「大和川の付け替え」と呼ばれています。 |
奈良盆地の水を集めた川 大和川の幹川の上流は奈良県の初瀬(はせ)川とされ、奈良盆地を西に向かって流れながら、佐保川、飛鳥川、曽我川、 葛城川、高田川、富雄川、竜田川など、奈良盆地内の河川を集めて1本の本流となり、生駒山地と金剛山地の間の谷を 抜けて大阪平野に出て行きます。そこで金剛山麓の南河内地域を南から流れて来た石川と合流し、そこからほぼまっす ぐに西へと流れ、堺市に至って大阪湾へと流れ込んでいます。 名前のとおり、大和の国の水を集めて流れ来た川と言ってよいでしょう。つまり、「大和川」というのは、大阪側か らみて付けられた呼び名だと思われます。古代には、飛鳥や奈良の都と難波(なにわ)の津を結ぶ重要な水運路でもあったの です。この大和川と、南河内を南北に貫く石川とがつながる場所に、現在の藤井寺市となる村々が位置していました。奈 良盆地と大阪弯岸地域を結ぶ交通ルートの中継点に当たり、交通の要地であったわけです。 続いた洪水と川の付け替え このように、奈良地方にとっても河内の国にとっても、大和川は重要な役割を持った川でしたが、一方で、河内の平 野部では度々洪水をもたらすやっかいな川でもありました。特に、中河内・北河内と現在呼ばていれる地域では、天井 川(てんじょうがわ)となった大和川の氾濫で、古来多くの村の農民たちが苦しめられてきました。古代から為政者たちは対策に 取り組んできましたが、根本的な解決には至りませんでした。 18世紀に入ってようやく、洪水の根本的解決策となる「川の付け替え」事業に幕府が取り組みます。これは、大和川 の流路を付け替えて洪水を防ぐという治水事業であるとともに、およそ一千町(約1000ha)にも及ぶ新田開発事業でもあ りました。1704年(宝永元年)の2月に工事が始まり、10月には完成しています。わずか8か月という大変なスピード 工事で、長さ14.3km、川幅約180mの新しい川が完成したのです。 新しい大和川が完成し、安定して農作ができるようになった河内平野では、旧大和川跡に開発された新田を中心に綿 の栽培が盛んとなり、やがて綿花の一大産地となりました。大坂商人の投資によって、綿花の栽培や織物業が一体的に 発達し、「河内木綿」と呼ばれるブランド製品となっていきました。 新大和川と藤井寺市 藤井寺市域にあった旧村で、旧大和川に直接面していたのは船橋(ふなはし)村と国府(こう)村だけでしたが、新しい大和川に よって、今の藤井寺市域にあった村の内、5ヵ村のかなりの面積の土地が川底となりました。中でも、川の付け替え点 にあった船橋村とその西の北條村は、村地の半分近くの土地がつぶれ地となり、石高もそれぞれ半分に減ってしまいま した。船橋村で約4町(約4ha)、北條村で約9町のつぶれ地が出ました。その西にある広い大井村では、約14町もがつ ぶれ地となり、新大和川によって村が南北に分断されてしまいました。現在の藤井寺市域で、川の北側に飛び地がある のはこのためです。さらに西側の小山村でも、約13町がつぶれ地となり、飛び地もできました。 新大和川によって南北に通っていた街道が切られたために橋が必要となりましたが、当時の幕府の政治的規制と財政 事情によって、橋の数は最少限にされました。参勤交代にも必要な紀州街道が通る位置に大和橋(現大阪・堺市境)が架 けられましたが、新大和川に架けられた橋はこの一つだけだったのです。当然、現在の藤井寺市域にも橋は一つも架け られていません。人々は、すべての行き来に渡し船を利用することになり、大きな不便を強いられました。 大和川に架けられた橋 明治時代になり、周辺の村々の強い願いと努力によって、やっと船橋村の位置に橋が架けられました。明治7年に完 成した橋は、「新大和橋」(写真の●)といいます。この場所は、古代から重要な交通路であった東高野街道が通ってい たのです。新しい道路が増えた現在もこの橋は健在で、今は自転車歩行者専用道路として地元の人々に大いに利用され ています。 その後、二つ目の橋として大井村に「大井橋」ができます。大井橋については、明治9年に志紀郡大井村が作成した 『橋梁樋管堤防明細帳』では、「渡百間・巾四尺・高壱間半」の橋と記載されています。この時点で大井橋はできてい たことがわかります。幅が約4尺(1.2m)しかない橋ですが、架橋費用については「皆民費ヲ以架之」とあります。村民 たちが出資して独力で架けた橋だったのでしょう。大井橋は1936年(昭和11年)には、西へ300mほど移動して新しい橋に 架け替えられましたが、この橋は後にほぼ同じ場所を通る大阪外環状線(現国道170号)の建設により、新道路に取り込ま れました。 大正時代には、藤井寺市の北西部で現府道旧2号が通る「大正橋」ができ、八尾市を経て大阪市へ通じる大切な路線 となりました。この橋も戦後の1952年(昭和27年)に現在の橋に替えられました。 その後、1938年(昭和13年)に新しい府道の産業道路(現国道旧170号)が造られ、大和川を越える橋として、「河内橋」 (写真の●)が架けられました。40年ほど前には、この国道170号のバイパスとして大阪外環状線が建設され、「新大井橋」 (写真の●)という大きな橋ができました。 そのほかにも、下流側の松原市や堺市でも明治時代以降にいくつもの橋が建設されてきました。 川の中の遺跡 Aの写真に写っている川と河川敷の一帯は、現在「船橋遺跡」と呼ばれる古代遺跡が分布する場所です。船橋遺跡は 藤井寺市の北條町・船橋町の北部を中心として展開する広大な遺跡で、東西約1.3km、南北約1.2kmの範囲に遺跡が広 がっていると推定されています。遺跡の中心部と考えられる場所が、ちょうど大和川の河床部分だったのです。つまり、 川の底から大量の遺物や建物跡が発見されたのです。 1954年(昭和29年)に船橋地区北部に堰堤(えんてい)(写真B)が造られてからは、増水時の堰堤からの落下水流によって遺跡 の露出が急速に進み、大量の土器などが人目に触れるようになりました。昭和20年代末〜30年代に河床の遺跡調査が何度 か実施され、建物遺構の確認や出土物の年代構成についての研究が進んで行きました。こうして、この遺跡は「船橋遺 跡」と名付けられたのです。 船橋遺跡では建物遺構や大量の土器・古瓦などが出土しており、この遺跡に存在していた建物やその位置づけについ て、様々な学説が提起されています。古瓦の種類や紋様、建物遺構から古代寺院のあったことが推定され、船橋廃寺と 呼ばれています。そのほかにも、河内国府とする説、河内国志紀郡の「志紀郡衙(しきぐん が)」とする説、さらには、古代に 「河内の市」とも呼ばれていた「餌香市(えがのいち)」があったとする説もあります。 現在では、大和川の河床以外の周辺部分の発掘調査も進んできましたが、遺跡全体の範囲があまりにも広く、多くは 市街地になっているため、遺跡の全体像を知るまでには至っていません。今後の調査が期待されます。 |
||
藤井寺市HP「大和川の堤と船橋遺跡の発掘3」へ 同「大和川の堤と船橋遺跡の発掘4」へ |
南河内区域をつらぬく川 石川は、1級河川大和川水系の支流の一つで、藤井寺市の東に接して流れています。大阪府の東南部、奈良県との境 にある金剛山地の西側斜面と丘陵地の水を集めて北へ流れ、市の北東部で大和川と合流します。この辺りでは、石川の 中ほどがとなりの柏原市との境界ともなっています。 藤井寺市が属している南河内地区は、金剛山地のふもとを南北に流れる石川の河岸段丘に古くから集落が発達し、こ れらをつなぐようにして東高野街道ができてきました。また、明治以降にできた鉄道も、石川や東高野街道に並行して 建設されてきました。このように、石川は、多くの町や村が南河内地域にできて発展するもととなった重要な存在なの です。 Aの写真のさらに北の河川敷には、野球場とテニスコートから成る市立の河川敷運動公園があります。また、この河 川敷には愛称「南河内サイクルライン」というサイクルロードが通っています。この道は細い自転車用道路ですが、れ っきとした大阪府道で、「府道802号・八尾河内長野自転車道線」といいます。八尾市域の大和川北岸から南河内最南 部の河内長野市までの総延長21.1kmの自転車歩行者専用道路です。まさに南河内を縦断するルートになっています。 近所の人々にはちょうどよい散歩道となっており、また、ロードレースの競技者にとっては貴重な練習コースとなって います。現在、大阪府が府道として整備したサイクルラインは3箇所あり、その一つが南河内サイクルラインです。 古代名「餌香川」 『日本書紀』などに記述のある「餌香川(えががわ)」というのは、石川の古代名とされています。672年の「壬申の乱」の 時の戦いは「衛我河の戦い」と呼ばれています。また、それに先立つ587年(用明2年)7月、蘇我馬子や厩戸皇子(うまやど のみこ)(聖徳太子)らの蘇我軍主力が物部守屋軍の先鋒と激戦の末突破したという「餌香川原の戦い」もよく知られていま す。下って1615年(元和元年)5月の大坂夏の陣では、石川(餌香川)の両岸地域を戦場として激戦が展開され、豊臣方の後 藤基次(又兵衛)や薄田兼相(隼人)などの武将が戦死します。「道明寺の戦い」と呼ばれる戦いです。古来、「餌香川」付 近が重要な戦いの舞台になっていたわけです。 『万葉集』に詠まれている「河内大橋」は、この餌香川の下流付近、つまり、現在の藤井寺市国府(こう)地区の近くに 架けられていたとする説が有力です。歌では、この橋の架かっていた川は「片足羽河(かたあすはがわ)」という名前で、朱塗り の立派な橋であったことが詠まれています。「片足羽河」については、大和川のことだとする説もあり、河内大橋があ った位置は定まっていませんが、多くの説に共通するのは、石川と大和川の合流点付近にあったとみる推定です。そう なると、やはり国府付近であった可能性が高くなります。 この国府地区は、古来「国府村」の名が受け継がれていて、河内国府の所在地であったと推定されている場所です。 そして、この地域かその近くには、古代の「河内の市(いち)」とされた「餌香市(えがのいち)」が設けられていたと考えられて います。「餌香市」も『日本書紀』『続日本紀』の記述に出てきます。 こうみてくると、「えが(餌香、衛我、恵我)」というキーワードが重要な意味を持っていることがわかります。ちな みに、宮内庁による治定(じじょう)名に「恵我」の付く天皇陵が、藤井寺市内に2ヵ所、隣接の羽曳野市内に1ヵ所あります。 登録有形文化財「玉手橋(たまてばし)」 石川橋の400mほど南には、1928年(昭和3年)に当時の大阪鉄道(現近畿日本鉄道)によって架けられた玉手橋という歩 行者自転車専用橋があります。この橋は、当時石川の東方にあった「玉手山遊園地」へ行く利用者のために架けられま した。電車で訪れる利用客は、道明寺(どうみょうじ)駅で降りてから石川を渡り、遊園地へと向かいました。 玉手山遊園地は、名前の通り玉手山という丘陵地を利用して、1908年(明治41年)に河南鉄道(大阪鉄道の前身)が建設 した西日本最古の遊園地でしたが、1998年(平成10年)に閉鎖となり、翌年に柏原市立玉手山公園として再開されました。 玉手橋は歴史が古いだけでなく、小型吊り橋の連続した形の「五径間吊り橋」となっていて珍しく、2001年に吊り橋 としては全国で初の国登録有形文化財に登録されました。橋長151m、幅員3.3mで、センターライン付きの歩行者自 転車専用道路となっています。戦後、地元自治体に移管され、現在は柏原市の管理する橋です。 |
||
B玉手橋 合成パノラマ 南側から見る。造られてから80年以上経っており、 ケーブルや路面は何度も補強されてきた。河川敷 に通る道路は南河内サイクルライン。 後方の山は生駒山地の南部、信貴山(しぎさん)系。 |