道明寺(どうみょうじ)

国道旧170号・土師の里(はじのさと)交差点から南へ約400mのT字交差点を東へ約130m 駐車場あり
近鉄南大阪線・道明寺駅から西へ約470m 徒歩約7分  土師ノ里駅から南へ約570m 徒歩約9分
土師氏の氏寺
 道明寺は山号を蓮土山と号し、真言宗の尼寺です。この寺は

世紀の中頃に土師
(はじ)の氏寺(うじでら)として創建されたと考えられ
おり、もとは
土師寺(はじでら)といいました。
 寺伝によると、推古天皇の時代に土師八島連
(はじのやしまのむらじ)が自
分の家を提供して寺とし、「土師寺」と称したのが始まりとされて
います。
 土師氏は、この地を本拠地として古墳築造などに活躍した土木技
術集団といわれ、現在もこの近くの駅名「土師ノ里」にその名を残
しています。
 もともとこの寺は、現在の道明寺や道明寺天満宮の南側一帯にあ
ったもので、今でも巨大な塔の心礎(柱の礎石)が残っています。
菅原道真と道明寺
 奈良時代になって、
土師氏は「菅原(すがわら)」の姓を賜って、菅原氏
というようになりました。
 平安時代の初期、菅原道真
(すがわらのみちざね)の伯母である覚寿尼(かく
じゅに)
が土師寺に住んでいたといわれ、道真が藤原氏の策謀で九州の
太宰府
(だざいふ)に左遷される時に、伯母に別れを告げるために土師寺
に立ち寄ったと伝えられます。この時、一本の檜を材料として道真
自ら彫って寺に残したと伝えられるのが、道明寺本尊の国宝十一
面観音菩薩立像(じゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう)
」です。
 道真の死後、土師寺は道真の号(文人としての別名)
である「道明
にちなんで、
道明寺」と改められました。道真を天神として祀る
ために社殿が境内に造られ、道真が残したといわれる道真自身の影
像が安置されました。
江戸時代の道明寺
道明寺の山門と参道
 道明寺の山門と参道
国宝十一面観音菩薩立像
国宝・十一面観音菩薩立像
 江戸時代には道明尼寺(どうみょうにじ)」と呼ばれていたことが書物に残っていますが、現在も道明寺は尼寺として
続いています。また、江戸時代の道明寺村は道明寺が支配する寺領で、幕末には約200石の寺領高がありました。
そのころの有力寺院としての道明寺の存在の大きさがうかがえます。

明治維新と神仏分離
 ところが、明治維新直後にこの有力寺院にも大きな変化が起こりました。明治初年(1868年)に神仏分離令が出
され、道明寺は移転を余儀なくされます。もともと土師氏の氏神として土師神社
が起こり、そこに仏教興隆によっ
て土師寺が造られたので、神仏混合の状態で道明寺の運営が行われてきました。江戸時代の『河内名所圖会
(ずえ)
には、全体が「道明寺」の題で描かれており、広い境内の真ん中に本堂と社殿が東西に並んで建ってい
ます。この
ような形態を神仏習合と言いますが、平安時代に始まってからやがて一般化していきま
した。神社の境内に神宮寺
(じんぐうじ)が造られたり、社僧と呼ばれる僧侶が神前で読経したりすることが普通に行われていたのです。
 古代律令国家にならい、祭政一致の政治体制を目指した明治新政府は、この状態を変えて
神社を国家の管理下
に置くことにしました。こうして神仏分離令が出されることになりました。さらに、明治4年には太政官布告

社領上知令
」が出され、寺や神社の境内以外の領地が国に没収されることになったのです。
道明寺の移転
 明治5年(1872年)に道明寺は分離され、寺は東高野街道をはさんだ西側の現在地に移転しました。現在の道明寺
の山門は、旧道明寺境内にあった鐘楼を移築して鐘楼門に改築したものです。神社はそれまでの境内に土師神社と
してとど
まりましたが、昭和27年(1952年)に「道明寺天満宮」に改称されました。
 道明寺本尊の「十一面観音菩薩立像」は、美術的にも評価の高い美しい仏像で、国宝に指定されています。ほか
にも、重要文化財指定の「聖徳太子立像」などがあります。
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