津堂城山古墳 (つどうしろやまこふん) |
《 藤井寺陵墓参考地(後円部頂)・国史跡 》 |
所 在 地 | 大阪府藤井寺市津堂 | |||||
最寄り駅と道のり | 近鉄南大阪線・藤井寺駅より北へ約1.4km(津堂八幡神社参道入口まで) 徒歩約22分 (ここから「まほらしろやま」まで約100m) |
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推定築造時期 | 4世紀後半 | 出 土 品 |
埴 輪 | 円筒埴輪 形象埴輪(家・衝立・衣蓋(きぬがさ)・盾・囲(かこい)形、水鳥・鶏・猪・馬形、壺形) |
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古 墳 形 | 前方後円墳 | |||||
墳 丘 規 模 (m) |
墳 丘 長 | 208 | 銅製品類 | 鏡(三神三獣鏡、二神二獣鏡、獣帯鏡、盤竜鏡、変形神獣鏡 計8面以上) 巴形銅器4以上、皿状銅製品、平板状銅製品、金銅製櫛(くし) |
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前方部 | 幅 | 117 | ||||
高さ | 12.7 | 玉・石製品類 | 硬玉(こうぎょく)勾玉
(まがたま)、滑石(かっせき)勾玉、
碧玉(へきぎょく)管玉(くだたま)、 硬玉棗玉(なつめだま)、滑石白玉、滑石刀子(とうす)、 滑石剣、滑石鏃(やじり)、 車輪石、鍬(すき)形石、石釧(いしくしろ腕輪) |
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後円部 | 径 | 128 | ||||
高さ | 16.9 | |||||
頂高 | 28.3 | 武具・武器 | 三角板革綴短甲(たんこう)、
刀、剣、環頭大刀(かんとうのたち)、素環頭大刀、 鉄鏃、金銅弓弭(ゆはず)、銅製矢筈(やはず)、木製刀装具 |
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その他の造り | 二重の濠と堤 造出し(つくりだし) |
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そ の 他 | 朱 | |||||
埋 葬 施 設 | 竪穴式石槨(せっかく)〈長さ6.1m 幅2.1m〉 長持形石棺(ながもちがたせっかん)(蓋石に亀甲文の陰刻) |
北西より見た津堂城山古墳 古墳公園として公園化整備が行われ、草花園や 菖蒲園、梅園などが造られた。季節の花が市民を 楽しませてくれる。写真は桜の時季のもので、津 堂城山古墳は市内でもちょっとした桜の名所でも ある。 |
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写真左下の白い屋根の建物は、「まほらしろや ま」という津堂城山古墳に関するガイダンス施設 である。休憩所を兼ねている。 |
真上から見た津堂城山古墳 古墳に接している道路は、本来の古墳の中を縦断 している府道旧2号・旧大阪中央環状線。 |
古くて巨大な古墳 4世紀後半に、古市古墳群の中で最初に造られた前方後円墳です。の古墳の位置は、羽曳野丘陵の低位段丘上にあり、古市古 墳群の中では最も北側にある古墳です。墳丘の長さ208m、前方部の幅117m、後円部の直径128mで、くびれの部分には造出 し(つくりだし)と呼ばれる出っ張りがあります。 「城山」という名は、中世の室町時代にこの古墳が城として利用されたことによると考えられますが、城山とい名の古墳は全 国にいくつもあり、区別するために所在地の地区名(旧村名)である「津堂」の名を付けて呼んでいます。 空から見つけられた巨大なすがた 現存するのは、墳丘と内濠だけですが、これまでの調査や研究により、二重の濠と堤をめぐらせた総長436mにもおよぶ巨大 古墳であったことが分かっています。これは、古市古墳群の中では、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳、仲津山(なかつやま)古墳に次ぐ、 三番目の大きさです。同じ時期に造られた古墳の中では、最も大きなものの一つでもあります。 |
戦後、航空写真による古墳の研究を進めていた末永雅雄氏が、この古墳の周濠 の外側に、幅80mにもおよぶ付属地があることを指摘し、この部分を「周庭帯(し ゅうていたい)」と命名しました。この周庭帯の部分が、後の調査により、内濠の堤と 外濠、さらに外濠の堤であったことが分かってきたのです。 現在の写真や地図からも、その周庭帯の形状を見つけることができますが、住 宅地化する以前の航空写真を見ると、はっきりとその姿を見ることができます。 ぎりぎりで古墳に接して造られたと思われていた府道は、実は古墳の中を縦断し ていたことがわかります。 複数の堤と周濠が墳丘を囲む形は、これ以後の大王級の古墳に多く見られる特 徴で、津堂城山古墳が最古の例です。他の大型前方後円墳の多くが陵墓に治定(じじ ょう)されている中、津堂城山古墳は後円部頂だけが陵墓参考地に治定されているだ けなので、それ以外の部分を考古学の専門家が発掘調査をすることができます。 この古墳以後の前方後円墳の発展の仕方を研究する上で、津堂城山古墳は大変貴 重な存在であると言えるでしょう。大王級の前方後円墳で、石槨や石棺の様子が 調査され、写真が残っているという例は、この津堂城山古墳だけなのです。 |
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市街化する前の津堂城山古墳と周辺の様子 〔米軍撮影 1948(昭和23)年2月20日〕より 周庭帯を含む形がよくわかる。写真右上に 見えるのは、藤井寺市北部を流れる大和川。 古墳内を縦断するのは府道旧2号。 |
一方で、陪冢(ばいちょう)と考えられる小古墳が周辺に一つも存在しないという、このクラスの大王級古墳としては、逆に珍しいと 思える要素も見られます。この古墳以後、5世紀にかけて造られた大王級の大型前方後円墳には、陪冢と考えられる古墳が必ず 存在しています。この点から津堂城山古墳は大王古墳ではないとする説もかなり有力です。そもそも、「古事記」や「日本書紀」、 「延喜式」に書かれている天皇陵の中に、津堂城山古墳の築造時期にあてはまる天皇で該当する場所の記述はないのです。 わすれられた大王級古墳 この津堂城山古墳は、実は明治が終わる頃までは、前方後円墳であること自体が地元の人々にもよく認識されていなかったよ うです。名前のとおり、戦国時代に三好氏の砦として城が築かれたことで墳丘の形が大きく崩れてしまい、見た目にはただの小 山にしか見えない姿になってしまいました。しかも、周濠部分の多くは農地として利用されていて、残った部分もよくある小さ な池にしか見えない様子でした。全体が大きいために、横から見ただけでは古墳だとは気づきにくい姿です。いつしか、ここが 古墳であったことさえ忘れ去られていったようです。明治時代の中頃に作成された地籍図を見ると、古墳域内の土地には城跡で あったことを示す小字(こあざ)名が載っています。「本丸・二の丸・三の丸・四の丸」です。つまり、この場所は、古墳としてでは なく、「城跡」のままそのイメージが長年伝承されてきたことがわかります。 航空機のない時代、上空から見て前方後円墳であることを知る手立てはなく、農地や子どもの遊ぶ山として利用されてきまし た。また、ここに津堂八幡神社が置かれて、お参りや祭りの場所ともなりました。 そんなことから、明治の初めに全国の陵墓調査が行われた時にも、きちんとした調査対象にはならなかったようで、明治18年 測量の2万分の1仮製地形図では、前方後円墳どころか、ただの草地としての表記しかありません。古墳として認識されていな かったのです。次の明治41年測量地図でも同じです。 このような実態が、その後この古墳に様々な運命を与えていくことになるのでした。 よみがえった巨大古墳 (1) 陵墓治定から外れる 明治初期から明治20年頃にかけて、陵墓治定の作業、つまり、どの古墳がどの天皇の陵であるかの選定考証が進められました。 この時、巨大な前方後円墳でありながら、陵墓治定からもれた古墳がありましたが、他の陵墓との比較から全く別物として陵墓 から外すわけにもいかず、「陵墓参考地」という治定が行われました(例・河内大塚古墳)。 ところが、津堂城山古墳は、この陵墓参考地の選定からももれました。墳丘が変形し、濠や堤の形も分からない状態で、大型 の前方後円墳であること自体が認定されなかったと思われます。 現在では、河内平野に最初に造られた大王級の古墳だと考えられている津堂城山古墳ですが、この明治期の治定作業では、全 く陵墓の対象外として扱われたのです。 (2) 巨大石棺の発見 1912(明治45)年、一大事件が起こります。地元津堂村の人々が、この古墳の後円部頂から石材を掘り出したときに、その下 から巨大な石棺が現れて、人々を驚かせました。 その前の明治39年に「神社合祀(ごうし)」の勅令が出され、全国で約7万社の神社が廃社となりました。現在の藤井寺市域でも、 津堂八幡神社をはじめ、国府(こう)八幡神社、大山咋(おおやまぐい)神社、志疑(しぎ)神社、野中神社、長野神社が近隣の神社に合祀されて 廃社となりました(長野神社以外の元村社であった神社は戦後に元の場所で復社)。 津堂八幡神社は明治42年に合祀されましたが、津堂村では、村社であった八幡神社が存在していたことの記念として石碑を建 てることが決まり、その石材を城山の山頂部から掘り出すことになりました。以前から地元の人たちには、この城山の頂上部(後 円部頂)の土中に大きな石のあることが知られていたらしく、それを神社の記念碑に利用しようというので掘り出したところ、そ の下から大きくて立派な石棺が現れたのです。この石材は、後円部頂にあるたて穴式石槨(せっかく)(古墳の埋葬施設)の天井石だった のです。 |
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(3) 1912年の発掘調査 石棺が発見されたことは、大きなニュースとして新聞にも報道され、多くの考古学者 が駆け付けました。東京帝国大学・坪井正五郎博士や京都帝国大学・梅原末治博士等によ る調査で、たて穴式石槨内からは長持形石棺や勾玉・鏡・刀剣など多くの副葬品が出土 しました。この長持形石棺は、それまで知られていた石棺の中でも最大で、しかも非常 に精巧な造りのものでした。 この時の調査で明らかになった資料は、他の大型古墳(その多くは陵墓)の内部がほと んど調査されていない中で、今なお貴重な学術的価値を持つものです。 (4) 陵墓参考地に追加治定 精巧な造りで大型の石棺が出土した城山古墳ですが、それまで全く陵墓調査の対象外 |
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発掘された長持形石棺と坪井博士 |
として扱っていた宮内省は、この発掘調査結果に対して急きょ対応策を迫られ、城山古墳の後円 部頂だけを「藤井寺陵墓参考地」として追加します。全体を指定するには、余りにも陵墓からほ ど遠い姿だったからでしょう。石棺は埋め戻すこととし、出土した副葬品は全て国が買い上げる ことになりました。 後円部頂だけという変則的な陵墓参考地の治定でしたが、こうして、ようやくこの地は前方後円 墳として世に知られ、しかも大王級の古墳規模であることも明らかになってきたのです。 (5) 国指定史跡となる 1958(昭和33)年1月21日に墳丘と内濠部分が国史跡に指定され、文化財として法的な保護が加 えられることになりました。その後、周庭帯部分の宅地化が進み出し、住宅建設に先立つ発掘調査 が行われるようになりました。 |
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後円部頂の今の様子 陵墓参考地になっている後 円部頂だけが、フェンスで囲 われている。この下に石槨が 埋まっている。 (南東から) |
(6)1980年(昭和55年)の調査 大阪府教育委員会による後円部西側、周庭帯での発掘調査が行われ、内濠の堤と外濠が見つか りました。内堤の外側斜面には葺石(ふきいし)が施されており、その斜面下部からは大型の 衝立(つい たて)形埴輪が出土しました。 この時の調査によって、「周庭帯」といわれた部分には、内濠の堤と外濠、外濠の堤のあった ことが分かりました。つまり、津堂城山古墳は二重の濠と堤を持つ巨大な前方後円墳であること が明らかになったのです。 (7) 1983年(昭和58年)の調査 藤井寺市教育委員会による東側内濠部分の発掘調査では墳丘・内堤・内濠がが検出され、造出 しも確認されました。また、円筒埴輪や蓋(きぬがさ)形、盾(たて)形、衝立(ついたて)形、家形の埴輪が 出土しました。 さらに、南東側内濠の中で、一辺17mの方墳状の施設(島状遺構)が見つかり、これの南側傾斜 面上部には、大きな3体の水鳥形埴輪がありました。後の調査で、反対側の南西側内濠にも、対と なるような同様の施設のあることが確認されています。 (8) 1987年(昭和62年)の調査 後円部北側で、内堤・外濠・外堤が検出されました。円筒埴輪などが出土しています。 (9)大王の古墳として 今までの調査・研究から、津堂城山古墳は、二重の濠と堤をそなえた巨大な前方後円墳であり、 |
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衣蓋形埴輪(上)と 衝立形埴輪(下) |
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出土物などから4世紀の末頃に造られたことが分かってきました。 津堂城山古墳以後の大王の古墳とされる巨大前方後円墳の多くに、二重の濠と堤が造られていることや、その他の資料などか ら考えると、津堂城山古墳は、河内平野に初めて造られた大王級の古墳であると考えられるのです。 市民の公園として かつて農地だった内濠部分は保存のために整備が進められ、ちょっとした古墳公園となっています。現在、内濠部北側に「史 跡城山古墳ガイダンス棟・まほらしろやま」がつくられており、展示や掲示によって津堂城山古墳についていろいろと知ること ができます。衝立形埴輪や円筒埴輪も展示されています。 また、内濠跡部分には、菖蒲園(しょうぶえん)や草花園(そうかえん)が造られ、四季折々の花が古墳を彩ってくれています。一度訪ねて みてください。 |
東側内濠跡につくられた菖蒲園 北側から見た様子。後方の森は形が 崩れてしまった墳丘部分。 |
菜の花がきれいな春の草花園(西側) この右手の方に津堂八幡神社があり、 この時季は桜の花もきれい。 |
コスモスがきれいな10月の草花園 人物後方の平屋の建物が 「まほらしろやま」 |
あの天井石は? 明治45年に掘り出されたあの大きな石はというと、予定通り津堂八幡神社の記念碑となり、最近まで神社の鳥居脇に堂々とし た姿を見せていました。 古墳内石槨の天井石は全部で7枚あったのですが、2枚だけが埋め戻され、他の5枚は古墳外に持ち出して使用されたと伝え られていました。その内の1枚が津堂八幡神社の記念碑で、あとは、葛井寺の忠魂碑、津堂村内の専念寺の庭石、隣接する小山 村の善光寺の敷石に使用されおり、残りの1枚は行方不明となっていました。ところが、2010年3月に藤井寺市教育委員会か ら、残り1枚の天井石が津堂地区内の民家の庭石に使用されていたという発表がありました。この天井石は、公開展示のために 市に寄贈されました。これらの天井石は、全て現在の兵庫県高砂市産の竜山石(たつやまいし)という凝灰岩(ぎょうかいがん)の一種が使用され ていました。これでやっと全ての天井石の行方が定まりました。 と思っていたら、なんとまた新たな事実が出てきたのです。実は、津堂八幡神社の記念碑は傷みがひどくなっていたので、文 化財の天井石として保存に提供されることになり、2011年8月に替わりの新しい石碑に取り替える工事が行われました。土に 埋まっていた記念碑の下部を掘り出していくと、記念碑の下に基礎石として天井石の1枚と思われる石が使用されていたのです。 こうなると数が合わないことになります。2枚が埋め戻されたというのは、果たしてどうだったのでしょうか。 石槨の埋まっている後円部頂は、現在は宮内庁管理の陵墓参考地となっており、柵で囲われていて入ることはできません。も ちろん発掘調査をすることもできません。天井石は全部で7枚だったのか、後円部頂に今埋まっているのは1枚だけなのか、そ れとも、実際には天井石は8枚あったのか、この疑問は当分の間解消しそうにありません。 新しく建てられて石碑の裏面には、津堂八幡神社の簡単な社歴が彫られています。裏面にある文面を紹介しておきます。 (原文は縦書きで、年・月は数字に変えています。) |
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内濠から出土した水鳥形埴輪 1983年の調査で発見されたこの水鳥形埴 輪は、2006年6月に国の重要文化財に指定 された。アイセル・シュラホールで展示 されている。 |
明治45(大正元)年建立の記念碑 この時すでに廃社となっていた 津堂八幡神社が、かつてここに在 ったことの記念碑なので、一番下 の文字は「址」である。 |
2011年8月に新しく建立された石碑 鳥居脇の同じ場所に建てられたこの石碑は、 神社名を示す標柱である。「八幡神社」の文字 に旧記念碑の書跡が使われているのがわかる。 |
展示された天井石 かつて津堂八幡神社の記念碑であった古墳石槨の天井石は、保存処理を経て現 在は「まほらしろやま」の前庭で民家から寄贈された石と共に展示されています。 記念碑の石は裏面を上にして展示されており、年号と碑文の筆者名を見ること ができます。『大正元年壬子桂月南岳藤澤恒書』とあります。記念碑の文字は 藤澤南岳(なんがく)の書であることがわかります。「大正元年壬子(じんし)の年の桂月(8 月)に南岳・藤澤恒(恒は名)が書いた」ということです。明治45年7月30日に大正 に改元となっています。記念碑の表の文字は『八幡神社舊(旧)址』です。 藤澤南岳は幕末に大坂で大きな漢学塾を営んでいた儒学者で、「通天閣」の命 名をしたことがよく知られています。大阪市の旧清華小学校・旧集英小学校・旧 愛日小学校などの命名もしています。大正9年に没していますが、記念碑が造ら れた当時にあっては、大阪で大変有名な文化人に碑文を書いてもらったということ になります。ちなみに、南岳は同じ明治45年の5月には、道明寺天満宮の大きな 注連石にも立派な書跡を残しています。 |
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展示されている天井石 手前の石が記念碑の石(右側が上部)。その 上は民家にあった天井石。上端の石は記念碑 の基礎石に使われていた石と周辺にあった石。 記念碑の中央下半部に「南岳藤澤恒書」の文 字が見える。 |
藤井寺市HP「国・府指定文化財」 藤井寺市HP「城山古墳物語」 | ||
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