市野山古墳
(いちのやまこふん)
允恭天皇(いんぎょうてんのう)恵我長野北陵(えがのながののきたのみささぎ)
所   在   地 大阪府藤井寺市国府(こう)1丁目
最寄り駅と道のり 近鉄南大阪線・土師ノ里駅より北へ約500m(拝所まで) 徒歩約8分
                後円部外周道路までは約170m
 徒歩約3分 
推定築造時期 5世紀中頃






埴  輪 円筒埴輪
形象埴輪(家・蓋
(きぬがさ)・盾・靫(ゆぎ)形、人物形、
     馬・犬・鶏形)
古   墳    形 前方後円墳




(m)
  
墳  丘  長   230
前方部   160 土   器 須恵器蓋坏(すえきふたつき)(5世紀中頃のもの)
高さ    23.3 そ の 他 江戸時代の古図に、墳丘から多数の勾玉(まがたま)の出
土したことの注記あり。
内堤部分から円筒埴輪棺や土壙墓などの墓地を確認
後円部   140
高さ    22.3
頂高    45.3 埋 葬 施 設 不明
その他の造り 三段構成の墳丘、二重の濠と堤、くびれ部の前方部両側に方壇状の造出し(つくりだし)
北東から見た市野山古墳 真上から見た市野山古墳   真上から見た市野山古墳

  二重の濠と堤があったと推定
 されるが、内堤の上には住宅な
 どが建ち並んでいる。家の並び
 や道路線によって、堤や壕の大
 まかな形が浮かん でくる。
  内堤の北東角地の外側には、
 50年近く前まで外濠の一部がL
 字形で残っていた。保育所建設
 に伴って埋め立てられたが、半
 分近くは広場の状態でその形が
 残されている。
  写真の左端に見える道路は、
 国道旧170号
で、外濠の推定位置
 にほぼ重なる。
北東上空より見た市野山古墳
   内堤の上に住宅の建ち並んでいる様子が
  よくわかる。濠はほぼ空堀で、降雨期に一
  部に水たまりができる程度である。
   写真左上の位置が近鉄南大阪線・土師ノ
  里
(はじのさと)駅。
古墳の堤の上を通る街道
 市野山古墳は、古市古墳群の中では4番目、全国では
19番目の大きさとなる規模の大型前方後円墳です。明治
時代の初めに当時の宮内省によって第
19允恭天皇の陵に治定されましたが、江戸時代の末期に修復されるまで
は、陵墓としての管理はきちんとなされていなかったようで、江戸期後半にこの辺りで綿作りが盛んになると、綿
畑に利用されていたようです。もともと周濠はほとんどから堀だったことから出入りがしやすく、ちょっとした里
山のような扱いだったのかも知れません。
 内堤の上には現在は住宅などが建ち並んでいますが、かなり前の時代から内堤とその外側の部分は畑地などに利
用されてきたようです。さらに、後円部南側の内堤の上を長尾街道が東西に通り抜けています
朝廷の支配力が後
退し、陵墓管理が衰退してきた中世からと思われます。長尾街道の元は古代の官道「大津道」で、市野山古墳のも
う少し北側を東へ直進していたと推定されています。時代が下ってから現在の道筋に変わったと思われます。

二重の周濠と堤
 この古墳は、古墳や遺跡が多く存在する国府(こう)台地の北端近くに造られています。墳丘は三段構成になってお
り、前方部はやや開き気味で、くびれ部の前方部両側に方壇状の造出しがあります。

 この場所はゆるやかに北東へ下がっていく地形のため、内堤の北側と東側は、盛り土をして南側の高さに合わせ
て造られています。現在は内濠だけですが、今までの調査で二重の濠と堤を備えていたことがわかっています。発
掘調査により、外濠は幅約
20m、深さ約2m、外堤の幅が10mであることがわかりました。外濠の幅は、後円部
の南側部分では他の部分よりも狭くなっています。周辺の土地との高低関係からみて、周濠に水をたたえることは
難しく
当初からほとんどから堀だったと思われます。元の地形のためか、北東部を中心とした部分で降雨期に水
溜りができる程度です。
 二重の堤のうち、現在は内堤だけがその地形を残しており
盛り土された北東寄りの部分もその高さを維持して
います。外濠はその一部が内堤の北東角の外側に沿ってL字形に残っていました。長池
(ながいけ)と呼ばれていました
が、1973年(昭和48年)に保育所建設に伴って埋め立てられました。半分近くの地形は広場の形で維持管理されて
います。それ以前に撮られた航空写真や宮内庁製作の允恭陵実測図を見ると、長池の形がよくわかります。

古墳の築造時期と古墳の名前
 市野山古墳は、従来5世紀後半に造られた古墳だと考えられていましたが、近年の円筒埴輪編年では5世紀中
の築造であると推定されています。今まで
市野山古墳が允恭天皇陵に治定されていることを疑問視する説も少
なくなかったのですが、築造時期の推定が早まれば、允恭天皇陵である可能性は高まることになります。
 「市野山古墳」の名前の由来は、この地が昔から地元で「市の山」と呼ばれていたことによります。この「

というのは、古代の律令時代に古墳のすぐ近くに、
餌香市
(えがのいち)」という河内の市が置かれていたことに関連す
るという説があります。「餌香の市」は日本書紀などに記述がありますが、その市が在った場所は、市野山古墳の
所在地でもある現在の藤井寺市国府地区、または近辺と推定する説が有力です。

周囲に多くの陪冢
 市野山古墳の周りには、陪冢(ばいちょう)だと思われる小古墳がいくつもあります。現在その内の2基が宮内庁によ
って允恭天皇陵陪冢に治定されて
います。「宮の南塚古墳」と「衣縫(いぬいづか)古墳」ですほかの小古墳はすべて
滅古墳
となりました。
 また、内堤から外側の周辺が宅地化したことに伴って、内堤・外濠・外堤などの調査が数多く行われ、いくつか
埋没古墳が見つかっています。内堤部分では、円筒埴輪棺1基
石槨木棺墓2基土壙墓
(どこうぼ)5基などで構成
される墓地が確認されています。

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