【 | 国道旧
170号・土師の里(はじのさと)交差点から南へ約400mのT字交差点を東へ約350m(駐車場まで) 近鉄南大阪線・道明寺駅から西へ約300m 徒歩約5分 |
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土師氏の氏神が始まり もともとこの地には、 土師(はじ)氏の氏神(うじがみ)として祖先を 祭神とする土師神社があり、仏教信仰が広まると、土師氏の氏 寺として土師寺も創建されました。土師氏は後に菅原姓を名の るようになります。 平安時代に、一族の出身である菅原道真(すがわらのみちざね)が藤 原氏の策謀によって九州・太宰府に左遷され、都に帰ることな くそのまま没すると、やがて都を中心として天災や疫病が続発 します。道真の怒りがもたらしたのだということから、その霊 が947年に京都の北野に天神として祀られ、北野天満宮が造ら れました。天神信仰としての天満宮の始まりです。 |
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道明寺天満宮拝殿 | ||
伝えでは、この時に菅原氏(土師氏)の出身地であり、道真の伯母・覚寿尼の住む土師寺に天神(道真)を祀 ったのが、天満宮としての神社の起こりだといわれます。この後、土師寺は「道明寺」と名前が変わります。 「道明」というのは、道真の号(別の名、雅号)だったのです。 神仏習合から道明寺天満宮へ 平安時代以降、神仏混合の状態で道明寺の運営が行われてきました。江戸時代に出版された『河内名所圖 會(図会)』には、全体が「道明寺」の題で描かれており、広い境内の真ん中に本堂と社殿が東西に並んで建 っています。また、道明寺が「道明尼寺」と呼ばれたことと共に、「天満宮」とも呼ばれていたことが記さ れている書物もあります。このような形態を神仏習合と言いますが、平安時代に始まってからやがて一般化 していきました。神社の境内に神宮寺(じんぐうじ)が造られたり、社僧と呼ばれる僧侶が神前で読経したりするこ とが普通に行われていたのです。 |
明治初年に神仏分離令が出され、1872年(明治5年)6 月に道明寺境内にあった天満社が、土師神社と改称して 境内地の大部分を引き継ぎました。翌明治6年9月には、 道明寺が土師神社から分離し、西隣りの現在地に移転し ました。 祭政一致の復古体制を目指した明治新政府は、全国の 神社を国家神道として管理する近代社格制度を整えます。 土師神社も大阪府の郷社として位置づけられました。 1945年(昭和20年)の敗戦によって国家神道体制は廃止 され、1952年(昭和27年)に土師神社は宗教法人となって、 「道明寺天満宮」と改称しました。今日の道明寺天満宮 の誕生です。明治初期に国家政策で仏教とは切り離され |
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『河内名所圖会』にある本堂と本社(部分図) 南西から見た図として描かれている |
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ましたが、「道明天満宮」とか「土師天満宮」などとはならずに、敢えて「道明寺」という寺院名の付いた 神社名を採ったところに、この神社の深い歴史を感じます。土師氏(菅原氏)の氏神・氏寺として千年以上に 渡って、神仏一体となって歩んできた切り離し難い歴史を象徴するような神社名です。 |
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菅原道真ゆかりのもの 道明寺天満宮の宝物館には、菅原道真の遺品として伝えられる品々が保管されており、平安時代から伝わ る貴重な品々として国宝に指定されています。他にも、重要文化財指定品など数々の貴重な品物が保管され ています。 天満宮の南に向けて少し行くと、菅原道真が経典を埋めた経塚から生えてきたと伝えられる「木げん樹(もく げんじ)」があります。その実を採って数珠(じゅず)にするとありがたい木とされています。現在の木は数代目のも ので、大阪府の天然記念物に指定されています。謡曲「道明寺」で、『河内土師寺の木げん樹の実・・・』 と登場する木です。 梅の花を好んだ菅原道真にちなんで、本殿の裏には多数の梅の木を集めた梅園があり、シーズンには多く の花見客が訪れます。また、学問の神様としてあがめられる道真公(天神様)に合格祈願するための絵馬が、 入試シーズンが近づくとびっしりと拝殿前につり下げられています。 年中行事としては、7月25日の「天神祭」をはじめ、1月25日の「初天神うそ替え祭」、2月25日の道真 公命日「梅花祭」、3月25日の「菜種御供(なたねごくう)大祭」などが知られています。 |
道明寺天満宮(中央部分)と道明寺(左上) (南東上空より) 江戸時代の道明寺村は道明寺が支配する寺領で、 幕末には約200石の寺領高がありました。そのころ の有力寺院としての道明寺の存在の大きさがうかが えます。かつての境内は今よりももっと大きいもの でした。 明治4年には太政官布告「寺社領上知令」が出さ れ、境内以外の寺や神社の領地が国に没収されるこ とになったのです。 |
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