黄金小学校
百周年特集 ①~⑥

① 開校前夜
② 資金集め
③ 開校の喜び
④ 開校当時あれこれ
⑤ 痛恨のかなしみ。おごんの雪
⑥ 鰊と黄金

ここに掲載させていただいたのは、黄金小学校百周年に際して、当時黄金小学校教頭をされていた村中誠治先生が地域の方から聞き取った話や過去の資料をまとめた物語形式の資料です。その後、村中先生が浜益村の教育長をされていた時に、石狩管内教頭会の北部ブロック研修会で講話をしていただいた際に資料としていただくことができ、地域の歴史を掘り起こし、郷土愛を育む取り組みに社会科の教師として感銘しました。
浜益小に着任して、校長室に保管されている黄金小百周年記念誌「希望をのせて」の中に掲載されているのを見つけ、村中先生にお願いして浜益小ホームページで紹介させていただくことにいたしました。多くの皆さんにご覧いただき、浜益の教育に懸けた先人の思いを知っていただきたいと思います。
なお、挿し絵は村中先生の作品で「黄金学校」の題字は、百年前にある保護者が書いたものだそうです。

           (校長 石黒隆一)

特集① 「開校前夜」 
         逞しい子供たち  学校に行けない子供たち

 早朝の、しばれる厳しい寒さの中、川下に集まった実田、柏木の子供たちは、茂生小学校めざして出発。
「いってくる。」子供たちは、深雪の中を6年生を先頭に山に上っていった。
「きをつけれや。」子供を送る親の気持ちは複雑であった。
 子供たちは集団で山を越えて茂生の小学校へ通っていた。夏はまだしも、冬は風が強く寒さも厳しくて大変であった。深雪のときは、カンジキを付けていても腰までぬかってしまうのであった。道らしい道もない状況では、通学は困難をきわめた。
 したがって、通っているのは元気な男の子だけで、しかも長男に限られていた。実田、川下(含毘砂別)、柏木の3村あわせても十数名だけであった。小学校の学齢に達している子供は100名を越えていたのに。
 明治25年のことであった。
 「何とかせねば」子供を持つ3村の父母たちの共通の悩みであった。
 「山越えしなくても子供たちが安心して通える学校が必要だ」みんなそう願っていた。
 各地域の総代が村と何回もかけあったが、「村に新しい学校を造るほどの財力がない」という返答であった。
 2年前の明治22年には幌小学校が開設されていた。
 手狭になった茂生の学校の改築問題、尻苗に小学校を開設する問題(明治27年開校)があり、村としても厳しい財政事情であったと予想される。

 

 

 

 

 

特集② 「資金集め」  おれたちがやらねば

 多くの子供たちが教育を受けられないまま、空しく時が過ぎることに危機感をもった3村の人違は、学校を造ろうと立ち上がった。
 明治27年12月7日、当時の川下総代松葉平吉のところに、3村(川下、実田、柏木、毘砂別)の主だった者11名が集まった。
「とりあえず、来年、川下に学校を開設してもらうことは約束できた。しかし、学校を建てることは無理だという。」
「役場に頼ってばかりではだめだ。寄付を集めるべ。」
「いったい、どれぐらいお金が必要なのか。」
「学校を建てるのに約500円、机や本その他の準備に200円は必要だろう。」
「そんな大金を集めれるものか、最近はニシンも思うほどとれないし。」
「1回ではむりだべ。何回かに分けて収めてもらわにゃ。」
「それに、3村以外にも呼びかけてみるべ。」
「とにかく、石にかじり付いてでもつくらねば。子供たちが、文字も読めない、書けない大人になってしまう。」
 この席でこんな会話がかわされたのでは、と想像される、
 とにかく、この後、川下総代が菊池藤吉になったが、ここに3村連合総代会が何回が開かれ、学校造り、寄付集めの話が進められた。
 さっそく、募金が開始された。主に、3回に渡って集められた。
 百数十軒から集められた金額は419円20銭であった。当時の詳しい貨幣価値は分からないけれども、村人にとって大金であったろう。

高額寄付者は次のとおりであった。
牧口直輔 31円
菊池藤吉 30円
松葉平吉 25円
小田久五郎 25円
阿部謙吉郎 25円

 

特集③ 「開校の喜び」


待望の学校が創設された。学校は「黄金尋常小学校」と名付けられた。
明治28年2月19日のことであった。
初代校長は、及川専治、単身赴任であった。修業年限3年、児童数は84名(男74四名、女10名)で、今まて10数名しか通えなかったことを思えば、父母や児童の喜びは察するにあまりあるものがあった。
同年9月には補修科3か年を併設した。通学範囲は、川下・柏木・実田・毘砂別となった。
これで村人は安心するわけにはいかなかった。まだ、仮設校舎だったからである。
募金活動は続き、最終的に四百数十円を集めた。役場からの補助が約300円で、合計777円のお金で校舎は新築された。(校舎には430円、後は備品や設備に使用)完成したのは、雪の降り始めた12月のことであった。
開校と、新校舎落成の二重の喜びに、及川校長のお祝いの言葉を聞く子供たちの目も輝いていた。
わずか、56坪の体育館もない学校であったが、父母は、自分たちが造った学校にこの上ない愛情をもったのであった。この学校が、自分たちの子供の将来、地域の将来に光を照らしてくれるからてもあった。
 これは、落成当時のご祝儀袋である。それにしても当時の人達の書のすばらしさには驚かされる。

 

特集④ 「知りたいこと」 開校当時あれこれ

  当時の様子を偲ぶには、あまりにも情報が少ないけれど、調べてみたことを書いてみた。百年という時の流れは、いろいろな変化を伴ってきたが、その当時の様子を今と比ぺてみよう。


■ 子供たちが学習した教科は今と同じ?
□ 修身・読み方・作文・算術・地理歴史・体操・裁縫・実業
以上で、今の教科名とは随分違うことがわかる。


■ 通知表の評価は?
□ 評価のいい順番から、「甲」「乙」「丙」「丁」の4段階評価であった。また、1教科に1評価だけだったから、上がり下がりの喜びもショックも今よりずっと大きいものがあったろう。


■ 教室はどうなっていたのか?
□ 開校の時はたった1つだった。(後に少しずつ増築していった)
教室とは言わず、「教場」と呼んでいた。その代わり図にあるように、「生徒控所」(控え室)があったのがおもしろい。

     


■ 当時の3村(川下・柏木・毘砂別・実田)には、どれくらいの人が住んでいたのか?
□ 戸数は、今の約半分の220戸、人口は、今より500人ほど少ない945人。過疎化の影響を受け、人口が減っている現在よりもっと少なかったのである。ただし、児童の数は逆に多かったのである。


■  なぜ、黄金小学校と名付けたか?
□ これは簡単。黄金山からとった名前である。


■ 開校記念日は、なぜ2月19日?
□ 当時の北海道庁長官(今の知事)から、学校設置の許可がおりた日がこの日なのである。


■初代及川校長の月給はいくら?
□ちょうど10円、今の4万分の1くらいかな。

特集⑤  おごん(黄金)の雪  

痛恨の悲しみ

  開校5周年目を迎えようとしていた明治32年2月6日、悲劇はおきた。登校中の子供たちが吹雪にとられた。信じられないほどのもう吹雪に、子供たちが次々ととばされたのである。そして、二人の女の子が尊い命をおとした。
 朝7時半、天気はよかった。子供たちが浜益川の橋の上にかかったとき、とつじょとして暴風雪に見舞われ、7人の女の子がとばされたのである。今で言う石狩湾低気圧による竜巻のようなすごい風が吹いたのだろう。3人は自力で家に戻った。しかし、4名の子供が帰ってこなかった。村人総出の大捜索の結果、つぎの二人の女の子が冷たくなって見つかった。
三浦奈美子 かぞえ12才(1年生)
阿部美和子 かぞえ11才(2年生) 
 美和子は実田の近くまでとばされていた。奈美子は自分の家の近くまで来て冷たくなっていた。
 両親家族はもとより、村人たちの哀しみは計り知れなかった。2人の霊を慰め、この災難を永く後世に伝えようと、村松武太郎と川上健が発起人となって慰霊碑を建てるための募金を始めた。
 そして今、その慰霊碑が校庭に建っている。


おごん(黄金)の雪

 この上ない哀しい事件にも、感動のドラマがあった。
美和子、奈美子の2人が冷たくなって発見されても、残る2人は見つからなかった。必死の捜索も7時間過ぎて、村人たちは体力の限界にきていた。村人は小屋に引きあげた。しかし、父親はあきらめなかった。「今見つけねば夜中になる。暗くなってしまえば、なもかもは終わってしまう。」と、一人吹雪の中にもどっていった。そして、木にひっかかっていた自分の子のだるま(マント)を見つけた。「この風上にいる。」
 2人は、「羽二生シゲ」と「木村よし」であった。
 2人はとばされ、偶然にも同じ穴に落ちて気をうしなっていた。気が付いた2人は、動けないまま、励ましあって助けがくるのを待っていた。眠気と空腹と厳しい寒さと闘いながら。
「よしちゃん、雪色おごんだよ。」
「ちがうよ、雪色しろいよ。」
と2人でいい争うことで8時間も頑張ったのである。
そして、ついにシゲの父親が見つけてくれ、村人を呼んできて助け出されたのである。

 

特集 ⑥ 鰊と黄金

沖揚げ音頭

「ヤーシヨイサー」のかけ声も元気に、黄金小学校児童全員で行われる「沖揚げ音頭」は、鰊漁盛んな時代に漁夫たちが鰊網を上げるときに歌ったものである。
鰊がとれなくなった今、もう歌われることもないが、ここでは、鰊漁盛んな時代の様子と学校の関係を取り上げてみたい。
浜益鰊漁の最盛期は、明治33~38年頃のようであるが、昭和11、13、14年の3年間を除いて昭和29年までは、それなりに漁獲があり、本格的鰊漁は続いていた。
鰊漁は3月末から5月の上旬が主で、ときには6月にも来遊することがあった。
群が来ると、海の色が変わり、海が盛り上がり、海が「ゴー」と音をたてたという。
以前は、「ほんとかな」と半信半疑であったが、カナダのフォークランド島におしよせる鰊の群をテレビで見てから信じるようになった。「本当に凄いものなのだ」と。


群が来たぞ!

 鰊の時期になると、子供たちは学校に赤旗が上がるのを楽しみにしていた。旗は、鰊の群(くき)がおしよせた合図で、その旗が上がると学校が休みになるからである。先生方も手伝いにいったそうである。今から考えると随分のんびりした話である。また、それだけ人手が必要でもあったのだろう。
大人は、漁業に携わっている者はもちろん、そうでない者も臨時漁夫(手間取り)としてみんな手伝ったのである。


鰊の恵みは

 黄金の校区は浜益唯一の平野があるため、昔から農業にたずさわる人が多く、したがって鰊漁を直接経営する家も少なかったようである。
だから、鰊で大儲けするというのではなく、「手問取」やいろいろな物を買ってもらったりすることでその恩恵を受けていたようである。
開校時にも、黄金の地域では何回かに分けてやっと四百数十円を集めたけれど、その一年前に開校した尻苗小学校の寄付は千三百円以上も集まったという。送毛の人達は、ほとんど漁師で、鰊漁の勢いが直接あったからと思われる。


子どもたちは・・・

 子供たちも、体力のある上級生はモッコを担いで鰊運びを、そうでない子はこぼれ落ちる鰊を拾いにいった。
女の子は、小さな子供、赤ん坊の子守にまわった。その他、鰊魚粕づくり、身欠鰊づくりなどいろいろな仕事の手伝いがあったが、子供たちは学校で勉強するよりはずっと喜んでいた。
勉強しなくても済むだけでなぺ、あとでお小遣いがもらえたからである。


全校児童で行う本校の「沖揚げ音頭」は、実際に鰊漁に携わった経験を持つ野村賢治郎氏を中心に平成2年から始まった。本物の舟を二艘使って、網をおこしながら歌う、他にみられない勇壮なものである。