黄金小学校
百周年特集 ⑦~⑫

⑦ 六百健児の希望をのせて
⑧ 学校が燃える
⑨ 校舎解体 老朽校舎の思い出
⑩ 感激の新校舎
⑪ 相継ぐ統合 消えゆく学校
⑫ 黄金っ子の成長を願って

六百健児の希望をのせて

 

 「六百健児の希望をのせて・・・・」これは黄金小学校の応援歌の一節である。今は「八十健児の希望をのせて・・・・」と修正して歌っている。
 黄金に600人も児童がいた時期はいつごろなのだろうか。今は77名、今より8倍もいたことになる。
実際に、在籍児童が最大になったのは昭和24年の565名が最高であった。卒業生が100名の大台にのったのは昭和35年であった。この前後が一番児立数が多かった時期てあった。 浜益の人口は昭和28年がピークで、現在の3倍以上の9000人にもなっていた。
 これは、終戦による帰還兵、徴用の解除、海外からの引き上げ者などで、急速に増えていった結果であった。これも、ニシンの不漁とともに減り続けることになった。

 単純に、児土数が多かったから栄えていた、とは言えないが、その変化を卒業生で見てみると、下図のような変遷になる。昭和の時代に入り40年頃までの卒業生が多い。
百年を迎えた今、卒業していく子供たちの数は11名。これは、くしくも黄金小学校第一回卒業生の数と同じなのである。
 児童数が多い時代は、担任の先生も指導が大変だったと思うが、子供たちは子供たちの世界があり、ガキ大将を中心に教えあったり、助けあったりして逞しく生活していた。、

村内の大行事 運動会

 祭りと運動会は、村民の待望の催しで、人々は揃ってこれにあたった。村人にとって、欠かせない楽しみな大行事であった。
 準備、会場設営、児童の競技審判から進行は、男女青年が担当した。プログラム内容も、児童のみでなく、男女青年、村人一般の競技も多数折り込み、一緒に楽しんだのである。中でも、村内各学校対抗によるリレーは熱が入り、大変なものであった。
 リレーは、4年生以上の選抜された男女によって行われ、その応援に4年生以上の児立全員と先生たちが応援にかけつけるという力の入れようだった。だから、リレーの選手に選ばれるということは大変な名誉で、本人はもちろん、一族の誉れでもあった。
 むろん、他校の運動会にも遠征して対抗リレーをおこなっていた。
 それぞれの学校の鉢巻の色は決まっていて、黄金の色は、その名のとおり黄色であった。黄色の鉢巻は常に先頭でゴールしなければならなかった。そして、そのとおりいつも1位で入ってきた。黄金には、スプリンターが揃っていたのである。
 騎馬戦も迫カがあった。学校の運動会も盛会だったが、黄金で行われるのがもっとも賑やかだった。それは、浜益で最大のグランドだったことと、集まりやすい場所にあったためだろう。

 

 

 

学校が燃える。

 昭和4年に待望の新校含が落成した、黄金の通学区は広く、その地域で農業が発展してきた。それに伴い児童数の増加もめざましく、大正年代には、400名になんなんとしていた。黄金小学校はかろうじて継ぎ足し校舎でしのいできた。というのも、黄金には基本財産(当時は学校に林や畑、干場などの財産があった)が殆どなく、名前とは裏腹に貧しかったのである。しかも、漁村部落のようにいわゆる親方がなく、寄付金もなかった。全て村費によって賄っていた。だから、校舎増築もおもうにまかせず、年によっては1日2部教授(午前と午後にわけて別の児童が登校して学習する)を行っていたのである。
 もちろん屋内体操場(体育館)もなかった。天気の良いときはともかく、雨の日や冬は外で遊ぶこともできず、廊下が唯一の遊び場であった。式や集会の時、教室のまじきりをはずして二教室を使ってやった。
 昭和に入って、村は児童の増加をみて黄金に高等科を併置すべく、新築拡大の計画を進めたのである。昭和4年、高等科を併置して児童数460名がはいった立派な校舎が完成した。もちろん、待望の屋内体操場もできたのである。児童はもとより、地域の父母の喜びは大変なものであった。

うれしかった体育館

 とくに、屋内体操場の完成が喜ばれた。子供たちにとっては遊びの場として、運動の場として。先生や父母にとっては、卒業式や入学式など、全体が集まる集会があずましくやれるからであった。広さは120坪で今の体育館(約178坪)よりは狭いが、当時としては堂々たる体操場であった。

学校が燃える

 しかし、この喜びも束の間、昭和8年2月12日に出火、この村内一を誇る立派な校舎が全焼してしまったのである。
 出火したのは、午後8時50分頃であった、当日は、朝からの猛吹雪で、強風のため火のまわりが速く、火災に気が付いたときは手が付けられない状態であったという。応援に駆けつけた各部落の消防組合の連中もなすすべがなかった、火が校長住宅へ類焼するのを、必死にくい止めるのが関の山であった。人命に被害がなかったのが不幸中の幸いであった。
この全焼で、学校にあった古い資料は一切なくなったのである。
「学校が燃える」
 吹雪の中、崩れ落ちる校舎を眺める子供たちの目から涙がとめどもなくこぼれ落ちた。
 「なんということだ」なすすべもなく見守る親たちはただただ絶叫するのみだった。

すばやかった対応

 この火災の後、学校・村の対応は目を見張るものがあった。各学年をつぎの6ケ所に分けて仮校舎とした。予算をつけて手直しをし、教科書など必要なものをそろえた。
しかし、不自由はしていた。4月になると新1年生に机椅子があたったが、2~5年生はリンゴ箱を使って勉強した。

2万8千3百円

 村の財政は決して楽ではなかったが、直ちに緊急村議会を開催し、大蔵省から借金することで、すぐに再建にかかり、その年の内に同様の立派な校舎を建築したのである。校舎を建てるのに借りたお金は2万8千3百円であった。
こんなにも素早く、対応し、建築できたのは当時の村長、川上健氏のおかげであろう。ご存じ、彼は、特集号②で紹介したように「黄金学校」を作るときの発起人の一人であった。

各学年次の所に別れて
川下青年クラブ
星野菊太郎氏の納屋
柏木青年クラブ
小笠原長次郎氏の建物
毘砂別青年クラブ
浜益尋常小学校教室


特集⑨ 校舎解体

木のぬくもり

 かつて村一番の立派だった校舎も、40年の歳月とともにすっかり老朽校舎になってしまっていた。雨漏り、隙間風はもちろん漏電の心配もあった。
 風の吹くときは窓ガラスがガタガタなってうるさく、曇りの日は日中でも薄暗かった。
吹雪の日は体育館に雪が吹き溜まりになっていたこともあった。屋根からの落雪で窓ガラスが割れることを防止するため板を張り巡らした。隙間風を防ぐためのビニル張りも、PTA父作業のひとつであった。
 暖房も石炭ストーブで、石炭運びの当番が大変だった。火の後始末にも随分と神経を使ったものである。
  「なんとか立派な校舎で勉強させてやりたい」、教育関係者や父母の願いが切実になってきたのは昭和45年頃からか。
 浜東小、実田小との統合問題とも絡んで話が進められていった。しかし、設置場所や財政問題などいろいろな事情で遅れ、念願の新校舎建築の工事が始まったのは、昭和51年の6月のことであった。
そして、翌年の昭和52年に、44年間もの長い間、たくさんの子供たちを育んできた旧校舎が解体されたのである。
 設備の整った鉄筋コンクリート造りの校舎は、ひとつの夢の実現ではあった。しかし、木造の旧校舎は同窓生のたくさんの思い出がびっしりつまり、愛着を感じている人も多かった。今、木の温もりが見直されているが、何とも言えない親しみを感じる校舎であった。また、風格もあったように思う。

老朽校舎の思い出

 旧校舎での思いでは、同窓生ならいろいろあると思うけれど、解体前の校舎内の様子を二三紹介してみよう。
掃除当番で一番大変だったのは雑巾掛け。長い廊下をいったりきたり、これがけっこう体力づくりになっていたかも。おかげで廊下の板は黒光、いつもピカピカだった。
 ストーブの上にのせた蒸発皿に牛乳のびんを入れて、あたためておく。給食のときは暖かい牛乳が飲めた。
 空き教室に卓球台をおきっぱなし。休み時間に先生や児童同志がよく卓球をして遊んでいた。
 中庭が二つもあった。西側の中庭に池をつくり、金魚や亀を飼っていた。亀がよく行方不明になり、子供たちが探していた。池はヒョウタンの形をしていた。
 椅子も置いて、子供たちの休み時間の憩いの場であった。「なかよし児童公園」とよんでいた。
 休み時間に廊下を解放した。おもいっきり走ったり跳んだり、体力作りに活用したのである。子供たちは、ぐるっと一回りできる廊下を喜んで走っていた。
 すきまの多い体育館も子供たちにとっては苦にならない。はいりこんだネズミを追いかけ回して捕まえたり、吹き込んだ雪の上を滑って遊んだりしていたのを思い出す。
 この旧校舎の全容を6年生がベニヤ板に彫りこんだ。

 

特集⑩ 感激の新校舎

 待望の新校舎(現校舎)は、旧校舎と向かい合うかたちで元のグランドに建った。昭和51年の12月のことであった。明けて昭和52年の1月から新校舎での授業が始まった。同年の10月に、体育館も完成し、11月には盛大に落成式・祝賀会が開催ぎれた。
 工事費は約3億8千万円。鉄筋コンクリートニ階建て、白く光るまばゆい校舎であった。
 当時の竹田教育長が、「学校は教育的に整備された環境でなければならない」と、昭和44年から新校舎の構想をたて、大江村長の決断で建ったのである。
 建築にあたっては、鈴木校長を始め当時の職員の意向も随分取り入れてくれ、当時としては最高級の設備を誇る学校であった。

頑張った父母

 鈴木P会長、木村協賛会長をはじめ、当時の父母が環境整備や施設整備の充実をめざ して頑張った。視聴覚機器、校旗、舞台幕など様々の物をそろえたのである。また、大 きな庭石を運んだり、山からオンコを運んだり、池を造ったりで、何もかにもが新しく 整備されて、一段落したのは松原校長(現教育長)の時であった。

おおよろこびの子供たち

 新校舎のいろいろな良い面をあげるより、当時の子供たちの素直な感想の一部を紹介してみよう。

■ 水のみ場には、器用なじゃ口がついていてコップがなくても飲めます。
■ スイッチを入れると「パッ」と明るくなって、みんなの顔が明るくなります。
■ 2階建てがうれしいです。屋上もあります。
■ 窓がガタガタいわなくて、静かです
■ 冬は暖かいお湯がでます。
■ 電気暖房なので、暖かくてススも出ないのできれいです。
■ 黒板が曲がっていて見やすいし、磁石がつきます。
■ OHPを使って、シートに書いて楽しく勉強できます。
■ 教室全部にテレビがあります.
■ 給食を運ぶ台に車が着いていて、とてもべんりです。
■ チャイムの音がとてもいいです。
■ 理科室も広くて、水道やガスが全部のテーブルについてます。
■ 家庭科室にも洗い場もあるし、ガスも使えます。
■ 図書室が広くて黒い立派な椅子があります。
■ 図工至は家庭科室といっしょだけれど、木の立派な机と椅子があります。
■ 体育館が広くて、おもいっきり走れるし、天井がとて高いです。
■ ステージの幕が電気で開きます。ブザーも鳴ります。

 今となっては、いろいろな欠陥も指摘されるが、当時としては最高の条件の設備であった。
体育館は、今でも村のスポーツや文化事業に解放され、大いに活用されている。

特集⑪ 相継ぐ統合  消えゆく学校

 浜益の人口の移り変わりは、そのまま学校の盛衰につながった。
 浜益村の最盛期には、小学校10校、中学校7校(内5校は併置校)を数えたが、児童生徒数の減少により昭和38年より統廃合が始まった。そして、現在浜益の小学校3、中学校2の合計5校になってしまった。
 このままの状態だと、やがて小学校1、中学校1の時代がくるだろう。
 黄金小学校も、今日4つの学校を吸収し、校区は浜益全域の半分以上になってしまった。
それぞれの学校の最盛期は70名以上が通学し、賑わっていた。そして、その地域の文化の守心となっていたのである。
 「学校が無くなるなんて、灯りが消えたような気持ちだ。なんか、大事な大事なものがとられてしまうような気持ちだ」統合の席でこう言っていた人がいたが、地域の人達の気持ちを良く代弁していると思った。
 地域を大切に思う人達が、断腸の思いで、学校がなくなることを受け入れる動機はただ一つ、「子供のため」である。学校は、集団生活を送る中で、社会性を身につけたり個性を磨いていく。それが不可能になったとき、また著しく困難になったときに、やむを得ず、子供のために統合を認める。子供たちも、自分の学校が無くなるのは決して喜ばないが、大人よりはずっと新しい環境に解けこむのは早い。
◆学校が閉鎖されるときの気持ちを、浜東小学校の学校便りにのった作文を2、3紹介したい。

★ 運動会、社会見学旅行、新年会など、数々の行事が学校を中心にして、部落ぐるみで楽しく行われてきました。
参観日で先生方と話し合った教室、それはわが子が学んでいた教室でもあるわけで、別れ惜しい気持ちでいっぱいです。
学校だよりも楽しみの一つでしたが、それもなくなってしまいます。
★ 今日から三日間、黄金小と合同学習である。バスで行く。ゆかりちゃんとわたしと益子ちゃんで、三人がけをした。
黄金小のげん関に入った時、長ぐつはどこへおくのかなと思っていたら、ひとりの女の子が「くつは、開いてる所に入れて」と言ってくれた。先生が教室につれていってくれた。教室に入った時、「うまく、みんなと仲良くできるかな」と思った。
★ 数年前から統合の話はありましたが、いよいよ本当ですか。
学校がなくなり、先生もいなくなり、昔からのご料地の人ばかりになってしまうので
すね。さびしくなります。
6人の子供たちがおせわになり、その姿が目に浮かんできます。

 

 

 

特集⑫ 黄金っ子の成長を願って


 「村づくりは、人つくり」とは、現浜益村長 丹保辰四郎氏の常日頃おっしゃっている言葉である。
また、「村に過疎化はあっても、子供の心に過疎を持ち込んではならない」これは、浜益村現教育長 松原稔氏の持論である。ともに教育の大切さを力説した含蓄のある言歯である、
時代の移り変わりとともに、黄金小の教育も随分と様変わりをしてきた。

 「子供に読み書きソロバンを」という明治の開校当時。教育勅語をまる暗記させられ、天皇が神様扱いされた時代、殴られながら勉強したカーキ色一色の国民学校時代、ついに自由が与えられ、日本の経済復興を一身に願いつつ過でした、貧しかった戦後の時代。
 そして今、物が豊かな時代、国際化、個性化が叫ばれる時代を迎えている。子供たちの将来にはいくつもの試練が待ちち構えている。それらを乗り越え、遅しく生きてもらうために、子供たちの主体性を育成することがとても大切にされてきている。
 本校における「じまんづくり」も、こうしたこと育むことをねらっての取り組みである。運動会や学芸会などの様々な行事が、児童中心に活動させているのは、児童の主体性・創造性を養っていくためである。

生涯教育と黄金小

 また、最近は生涯教育が叫ばれている。浜益でもスローガン「かだり合い、共に生きるべ」をかかげて、一生学び続けることができ教育づくりに力を入れている。
 黄金小学校でも、田植え・稲刈・もちつき大会と一連の行事の流れの中で、児童がお年寄りから教わり、またお礼として、招待し、御馳走したりお世話をしたりする交流に努めている。学校を開き、地域との交流・関わりを大切にした教育こそ、生涯学習に結びつくものだと考える。

小中高の連携を

 ただ、浜益の場合は、この他に小・中・高の連携問題がある。村に道立高校がある。こんな恵まれた村はない。
 浜益高校の存続は、村民にとって精神的・経済的にもたらすものは大きい。浜益高校の先生方始め、村長、教育長が一生懸命頑張ってくれている。小・中の先生方もこれにこたえようと、意欲的で確かな基礎学力を持った子供の育成に力をいれている。
 就職や大学進学で浜益を去るのはやむをえないが、高校までは「浜益の子供は、浜益で育てる」そういう気概を持って教育にあたりたい。このことで、村内最大の児立数を抱えた黄金小学校が果たす役割は大きい。「がんばれ、黄金っ子」。いや「がんばれ、浜益っ子」か。どっちにしても、父母の皆様の絶大なご理解とご協力を期待したい。みんなで協力し、努力しないと、大切なものが村から去っていく。

 ありがとうございました 百周年記念事業

 この、開校百周年を記念して、いろいろな行事、事業が計画され、実行されてきている。田村協賛会長、北校長、荘司P会長始め、父母、職員が中心となって取り組んできた協賛会事業が、皆様のご協力のおかげで順調に実施されてきている。
 平成6年8月末現在の寄付金総額は、約790万円、物品寄贈や、役場からの関連施設設置を加えると、ゆうに1000万円を越える事業となった。
 ご協力いただいた皆様に、深く感謝申し上げる次第です。「ありがとうございました。」
[主な事業〕
◇ 記念誌(含卒業生名簿発行)
◆ 記念碑設置
◇ 全遊具施設の新設
◆ 校章月演台新設
◇ 和太鼓四組
◆ 記念橘樹(前庭垣根)
◇ 歴代校長・会長の額
◆ 記念品(下敷他)
◇ 式典・祝賀会・除幕式
◆ 記念研究発表会
◇ 校内設備の充実
◆ その他