みなさんの町には、「アレッ?」とか「なに?これ!」とか思うような場所や風景はありませんか?
 どこの町にも、一つや二つは必ずありそうな、そんな藤井寺市の「ナニコレ」を、豆知識として紹介
してみます。
 T 街の中に船が!?
 なんと、街の中に大きな船が!いったいこれは?
手前には住宅地が、後方には大きなマンションなど
が並んでいます。どう見ても港があるような場所に
は見えません
。そもそも藤井寺市は大阪湾から20km
近くも東に離れた奈良県に近い所です。もちろん、
本物の船ではありません。
 これは、アイセル・シュラホールの愛称を持つ市
立生涯学習センターです。藤井寺南小学校のななめ
向かいにあります。
  街の中の船?
シュラホール モデルは埴輪の古代船
 この建物は、東側(右)が古代船の前方部を、西側
(左)が古代の大型木ぞり修羅(しゅら)を、それぞれモチ
ーフとして造られています。
 古代船は、市内の古墳から出土した我が国最大級
の舟形埴輪にちなんでいます。修羅は、
1978年に
古墳周濠の地中から全国で初めて発見された大型の
古代木ぞりです。この貴重な出土遺物が古代遺跡の
多い藤井寺市を象徴するものとして、新設する施設
の外形モチーフに選ばれました。「シュラホール」
の名称もこの修羅にちなんで付けられました。
 ほかにも、前方後円墳の形と埴輪の色をモチーフにした市立図書館、埴輪の色をイメージした外壁
市役所などがあります。
   【アイセル・シュラホール 】近鉄南大阪線・藤井寺駅から南へ約700m 徒歩約11分 「藤井寺南小学校の周辺地図」 
 U なんで あっちにもこっちにも小山が?
 藤井寺市内を移動していると、街の中のあちこちに小さな山が目に入ります。藤井寺市って山が多い
所? いえいえ、そうではありません。藤井寺市は大阪平野の南東のはしっこといえる位置にあり、海沿
いの大阪市などよりは少し高い土地ですが、高低差は小さく、ほとんど平地といってよい地形です。つま
り、山のない所なのです。では、あの山は?
 
岡ミサンザイ古墳   市野山古墳
 神社やお寺の森にしては大きすぎますね。里山
にしては、山地から離れていて、平地に点在する
のも不自然です。実は、これは自然の山ではなく
言ってみれば「人工の山」で、藤井寺市内にいく
つもある大型の前方後円墳です。
仲津山古墳
藤井寺市は古墳の町
 藤井寺市はとなりの羽曳野市とともに古市(ふるいち)古墳群という古墳の集
まっている場所にあります。
古墳群のほぼ中心ともいえます。古市古墳群は全国有数の古墳群で空から見るとたくさんの古墳が点
在しているのがわか
ります。前方後円墳以外の古墳も合わせて、現存数40数基の古墳でできている古墳
群です。この大きな古墳群の中に市域があることで、藤井寺市にいろいろな特徴がもたらされることと
なりました。古市古墳群は2019(令和元)年7月に堺市の百舌鳥
(もず)古墳群とと共にユネスコの世界文化
遺産
に登録されました。百舌鳥古墳群では21件23基、古市古墳群では24件26基、合計45件49基の
古墳が構成資産として登録されました。この内、
16基の古墳が藤井寺市内に存在しています。
 写真は
左上が岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)、同右が市野山古墳(允恭天皇陵)、下が仲津山古墳(仲
姫皇后陵)
です。ほかにも、いろいろな古墳があります。詳しくはリンクページで見てください。
 V 住宅地の中にロータリー?
住宅地の中にロータリー?    静かな住宅街です。街路の中を行くと、とつぜん
環状道路が現れます。なんでこんな所にラウンドア
バウトが?
 人通りも車の通行も少なく、幹線道路から入った
住宅街の中です。どう見ても、ラウンドアバウトが
必要な場所ではなさそうです。
伝承の古墳
 これは、住宅地が開発されるとき、街路の中に残
された小さな古墳で、
蕃所山(ばんしょやま)古墳という名
の古墳です。地元では古くから「モッコ塚」ともよ
ばれてきました。誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の造
成工事に使用したモッコなどの道具を埋めて造った
塚なので、この名が付いたと伝承されています。直
22mの円墳の形をしていますが、詳しい調査はさ
れておらず、本来の墳丘の全体像や誉田御廟山古墳
蕃所山古墳
古墳との関係など、よくわかっていません。藤井寺南小学校の校区にあり、2001年に国史跡に指定され
ています。

古墳を守った街づくり
 昭和30年代前半に、電鉄会社によってこの住宅地の開発が行われそれまで田んぼの中に島のように
存在
していたこの古墳は、道路で囲む形で残されました。つまり、古墳を残すことを前提にしてこの辺
りの道路設計を考えた、ということになります。その結果、閑静な住宅街の中に、回る車もたまにしか
見ないミニラウンドアバウトが誕生したわけです。
 奈良県明日香村の高松塚古墳で壁画が発見されて、明日香ブームや古代史ブームが起きるよりも、10
年以上前のことです。誰が葬られているかもわからず、形も変化している小さな古墳を、どうしてこの
ような形で守り残そうとしたのでしょうか。文化財保護・保存の観点を第一に考えたとすれば、たいし
た先見の明だと思われます。しかしながら、古墳という文化財に対する当時の世間一般の見方・考え方
が、必ずしも今ほど保護・保存に重きを置くものではなかった時代です。一方では、葬られた人に対す
る恐れ、安らかに眠っていてほしいという気持ちなど、地元の人々の思いも大きな背景ではなかったか
と考えることもできます。
 市内には、長い歴史の中で私有地化したり、町が都市化していったりする中で消滅していった小型古
墳がたくさんあります。今は写真や調査資料でしか知ることができません。それだけに、この蕃所山古
墳が住宅開発の過程をくぐりながらも現存していることは、貴重な例として評価されてよいでしょう。
 なお、この住宅地の中には、蕃所山古墳の150mほど北方に、もう一つサンド山古墳という古墳が残さ
れていますが、変形が大きく、墳丘の形は不明です。
   【蕃所山古墳】近鉄南大阪線・藤井寺駅から南東へ約1.5km 徒歩約23
 W 神社の境内を電車が!?
神社の中を電車が!    静かな神社の境内に、突然、カンカンカンという
踏切の警報音が鳴りひびき、赤いランプが点滅を始
めます。しばらくすると、境内の大木の陰から現れ
た電車が、数秒間で拝殿への参道を横切って行きま
した。なんでこんな所に電車が?
 左の写真を見ると、鳥居や石燈籠と奥の拝殿との
間を電車が通っています。間違いなく、ここは神社
の境内であることがわかります。下の写真で、もっ
とはっきりわかります。つまり
境内に電車が通っ
ている
という、全国的にも数少ない珍しい神社なの
です。神社の名は「澤田八幡神社」といい、地元沢
田地区の氏神です。江戸時代の初め、当時の澤田村
の氏神として創建されました。

境内を横切る電車路線
 ここを通る電車は、大阪阿部野橋
(あべのばし)駅を起
点とする近畿日本鉄道南大阪線です。沢田八幡神
社は、市内の藤井寺駅と土師ノ里
(はじのさと)駅の間に
あります。
 南大阪線が開通した当初、藤井寺駅−道明寺駅間
には駅はありませんでした。駅も無いのに、道明寺
沢田八幡神社の踏切
駅から北の方を急カーブして仲姫皇后陵(仲津山古墳)の北から西へ廻るルートが設定されました。おそ
らくは、後年駅を増設する計画であったと思われます。実際、1924(大正13)年6月1日に土師ノ里駅と御
陵前駅(後廃止)が藤井寺−道明寺間に開設されました。これらの駅は、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)や允
恭天皇陵(市野山古墳)仲姫皇后陵などの皇陵巡りに便利な位置に設定されています。古墳を避けながら
も集落の近くを通り、なおかつ皇陵参拝にも便利な位置となる駅、それがうまく工夫されています。
 集落の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って走らせることにした結果、陵の堤に続く斜面に
あった沢田八幡神社を横切ることになったのでしょう。それにしても、当時の村の人々がよく承知した
ものだと思います。何しろ、鎮守の杜の境内を列車が走り抜けるというのですから。しかも、この路線
の開通当時は蒸気機関車が列車を引いていました。電化されたのは開通の翌年(1923年)で、大阪天王寺
駅(翌年大阪阿部野橋駅に改称)まで開通した時でした。
時代を先取った澤田村
 この路線の部分が開通したのは、1922(大正11)年、近鉄の前々身会社、大阪鉄道によってです。村々
が近代化する中で、村の人たちは将来を見据えていち早く鉄道の重要性を認識し、沢田地区に駅ができ
ることを待望したのでしょうか。この線路建設のために、地区の共有地の一部が大阪鉄道に無償で譲渡
されています。
 因みに、今の藤井寺市域となる14の村々の中で
学制発布の翌年明治6年にいち早く小学校を開設
したのもこの沢田村の人たちでした。周辺8カ村の連合で沢田村の極楽寺に
河内国第二十四番小学(の
ち沢田小学
沢田尋常小学校道明寺小学校)を開校させました。当時は小学校開設の資金の多くは村
民の負担でした。全国各地で、これを不満とする人々の暴動が起こっています。そんな中での早い学校
開設だったのです。鉄道といい、学校といい、近代化へ向けて進取の心で受け入れていった、当時の沢
田村の人々の気概が感じられる歴史です。
 神社の境内は、昔から子どもたちの遊び場でもありましたが、最近は遊ぶ子を見るのも少なくなりま
した。遊びの種類と場所が合わないのでしょうか。電車が通っている場所でありながら、不思議と事故
の話は聞きません。神様の前だからでしょうか。拝殿のすぐ前に2本、後ろに1本のクスの大木があり
ます。おそらくは、神社が造られた頃に植えられたものでしょう。400年近くはたっていると思われる
立派な古木です。
   【澤田八幡神社】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から西へ約400m 徒歩約6分
X なんで急に曲がっている? 
急に曲がる道路    直進してきた車が小さな急カーブを回って、向こ
うに消えていきます。ここは、大阪府松原市と奈良
県天理市を結び、名古屋市へとつながってい西名
阪自動車道
の脇下を通る北行きの側道です。
 普通は高速道路に沿って並行するように造られる
ものですが、ここはどうして急に曲がっているので
しようか?
 下の地図でわかるように、直進している側道が、
この部分で急にポコリと外側に曲がり出ています。
その内側には、なんと、高速道路の下にまたがって
古墳があります。この古墳の名は 赤面山(せきめんやま)古墳といいます。
 もうおわかりですね。この小さな古墳を壊さないで保存するために、このような道路が造られたので
す。初めて車で通る運転者は、「なんで側道がこんなに急に曲がるんや!」と、ビックリものです。
 
高速道路と古墳の保存
 この赤面山古墳は、昭和31年に国史跡の指定を
受けています。指定を受けていることが、古墳保存
の大きな理由でしょうし、国の指導もあったことで
しょう。その一方で、高速道路建設工事を進めた人
たちにも、敢えて側道を迂回させてでも、この小さ
な古墳を保存することへの思いがあったのではない
でしょうか。
 完成すれば多くの自動車が高速で走る道路です。
道路建設には何年も工事が続きます。どちらも、日
々安全を第一に願わずにはおれないことです。その
赤面山古墳地図
赤面山古墳 ためにも、この古墳に葬られた人には、安んじて眠
っていただいていることが、何よりも大切になって
くる‥‥そんな思いもあったのでは、と想像してみ
たくなります。
 この建設工事は、昭和
40年前後の時期でした。
これ
も、古代史ブームよりも6,7年前のことです。
当時としては、この古墳の保存にかけたエネルギー
のすごさを感じます。側道を曲げるために買収用地を増やしただけでなく、もう一つ設計上の尽力の跡を
見ることができます。
古墳を守る道路設計
 下の写真は、高速道路の高架の下側と橋脚の様子です。古墳の上の上り車線と、右の下り車線とを比
べて見てください。右が本来の設計通りの造りです。左は、古墳の位置に橋脚がぶつかるため、橋脚の
間隔を長くして、古墳を完全にまたぐように造られています。長くなった分、強度を高めるために、コ
ンクリートの橋桁の下部にアールを付けて、この部分だけ特別な造りになっています。現地で見ると、
その違いがはっきりとわかります。
 一部に特別な設計をするということは、当然、余分に手間と費用がかかるということです。このよう
に手厚く保存の措置がとられた赤面山古墳ですが、本来どのような古墳だったのか、実はよくわかって
いなかったのです。

従来の推定よりも大きかった古墳
 現在見える形は円墳のように見えますが、元々は一辺15m、高さ約2mの方墳だと考えられてきました
。2016年2月、墳丘裾部に掛かる3ヵ所のトレンチ調査が市の文化財保護課によって行われ、初めて墳
丘端が確認されました。それによって、この方墳の一辺は約
25mであると推定ができ、従来考えられて
きたよりも大きい古墳であることがわかりました。
 北側裾部では、円筒埴輪2基が原位置で発見され、円筒埴輪列と確認されました。埴輪の間隔
が1.6
mと古市古墳群の他の古墳の円筒埴輪列に比べてかなり広いという特徴があります。この埴輪は、まだ
窯を使わない時期のもので、野焼きで作られたものです。他にも盾・甲冑・衣蓋
(きぬがさ)などの形象埴輪
が出土しています。埴輪の特徴
から、赤面山古墳は4世紀末から5世紀初頭のものと考えられています。
 赤面山古墳は、古市古墳群の現存古墳の中では最も小規模なものの一つですが、そうであるが故に、
古墳の保護・保存を考える上で象徴的な存在となっている古墳でもあります。高速道路という、都市化
や現代インフラを象徴する建造物と、見事に共存できた貴重な例として、もっと注目されてよい古墳だ
と思います。藤井寺市内では、民有地となっていたいくつもの小古墳が、戦後の道路建設や住宅地開発
などで消滅しています。その中には、赤面山古墳よりも大規模な古墳や、学術的に貴重な資料となる豊
富な出土物が発掘された古墳もありました。今となっては残念の一語に尽きますが、「赤面山古墳」の
存在がそれらの消滅古墳の墓碑銘に代わるものとなってくれることでしょう。
   【赤面山古墳】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約1.1km 徒歩約17
Y なんで川の横に川が? 
川に並行する川
 写真の左に小さな川が流れています。ところが、
よく見ると、その右の方にもう一つ大きな川が見え
ています。この大きな川は、大阪府内では淀川に次
いで2番目に大きな大和川(やまとがわ)です。奈良盆地
で集まるいくつもの支流をまとめ、山地の切れ目か
ら大阪平野に入り、大阪湾へと流れていきます。こ
んな大きな川の堤防の下に、もう一つの川が並行し
  川の横に川?
て流れている。なんだか変ですね。大和川に流れ込んで行くのならわかりますが、大和川に沿って並行
して行くのはなぜでしょうか。
空から見た大和川と落堀川 理由は300年前に
 小さい方の川は落堀川(おちぼりがわ)といいます。こ
のなぞには、
300年余り前の歴史が関わっていま
す。実は現在の大和川は
人の手によって造られた
人工の川
なのです。江戸時代の1704年に大和川付け
替え
の大工事が行われました
藤井寺市の北東部の
辺りから大阪湾へ向かって西に流れる新しい川を造
ったのです。
 それまで、大和川は大阪平野に入ると、何本かの川に分かれて、北へ向かって流れて行っていました。
それは、この辺りの土地は南が高く、北が低くなっていたからです。ところが、何本にも分流したこと
で流れが遅くなり、川底に砂がたまっていくことをくり返しました。その結果、これらの川は、川底が
周りの土地よりも高くなる天井川となっていったのです。この天井川が流れていた地域では昔から洪
水の被害に苦しんできました。
 洪水をなくしたいという人々の願いは、江戸時代の中頃近くにな
って、約50年にも及ぶ請願運動とな
り、やがて、大和川の流れそのものを変えてしまうという、大事業計画となって実現することになった
のです。今なら、一大公共事業というところでしょう。幕府と幕府に命じられた大名によって工事が行
われました。工事は、長さ約14km、川幅180mの川を造るというものでしたが、予定よりもずっと早く終
わり、わずか8ヶ月で完成しました。驚異的なスピードです。機械化の進んだ今の時代でも、とてもこ
んな期間に完成させることはむずかしいでしょう。
付け加えられた工事
 工事を進めていく中で、ある大切な工事が付け加えられました。それは、新しくできる大和川に並行
して水路を造るというものです。それが落堀川なのです。いったい、なんのためなのでしょうか。
 新大和川は、南から北へ傾斜していってる土地に、東から西へ横向きに流すというものでした。「横
川」と言われるものです。本来なら北へ流れていくのが自然の流れの向きとなる地形で、いわば無理に
横向きに流そうとしたため、大きな問題がありました。
 もともとこの辺りには、地形に合わせて南から北へ
向かって流れる小さな川や水路がたく
さんありました。
それらの流れが、新大和川の堤防でさえぎられてしま
うことになるのです。新大和川は、土地を掘って造る
のではなく、平地に土を積み上げて堤防を築き、その
間に水を流すというものでした。そこへ元からあった
北行きの流れを流し込もうとしても水位が合わず、大
雨の時には大和川の水が大量に逆流してくることにな
ります(断面図を参照)。そのため南から来る流れは新
落堀川と大和川の水の流れ
大和川に注ぎこませるわけにはいきません。かといって、このままでは堤防で流れが止められ、堤防の
下に水がたまってしまいます。この問題を解決するものとして、南側堤防の下に落堀川が造られること
になったのです。
 堤防の下に大和川に並行して排水路を造
り、南から流れて来る水を集めて大和川と並行させて流しま
す。西の方へ流して、高低差を合わせやすい所で大和川に流し込む、というものです。「落堀川」とい
う名前の由来も、これでわかりますね。
現代に続く問題
 落堀川を造るという解決策は、技術的にも大変よく考えられたものでした。落堀川は、今でもその役
目を果たしています。ところが、時代が変わり、現代になるほど新たな問題が起こってきました。
 戦後の大阪府内の人口急増の中で、新大和川の南の地域でも急速に都市化が進みました。たくさんあ
った水田や畑が次々と住宅地などに変わっていき、必要度の減ったため池が次々と姿を消していきまし
た。その結果、大量の雨が降ったときに、一時的に水をたくわえてくれる池や水田が不足していったの
です。おまけに、都市化で住宅や舗装された道路が増え、雨水のしみ込む土地はどんどん減っていきま
した。地上に降った雨水は、一斉に側溝や下水路に流れ込み、昔からあった小さな川は、一気に増水す
るようになりました。そして、それらの水は、たいへんな勢いで落堀川へと流れ込んでくるのです。
 もともと落堀川は横川なので、流れの勾配は小さく、ゆっくりしか流れない川です。そこへ一気に大
量の雨水が集まるので、落堀川に注ぎ込む川や落堀川で、水が溢れるということがしばしば起きるよう
になりました。内水氾濫と言われる水害です。江戸時代よりも何かと進んできたはずの現代社会になる
ほど、水害が増えるという、皮肉なことになりました。
 この新たな問題を解決するために、藤井寺市内では2カ所の排水ポンプ場が造
られました。落堀川に集
まった水を、大型排水ポンプで強制的に直接大和川へ流すという役目です。また、下流の松原市や堺市
では、排水ポンプ場のほかにも、落堀川(下流では別の名)の水が大和川に流れ込みやすいように、逆流
しにくい新しい放水路が造られています。これらが完成してからは、落堀川があふれて水害が起きると
いう危険性は大幅に減少しました。
   【落堀川】藤井寺市船橋町〜松原市大堀4丁目  大堀以西は「今井戸川」
        近鉄南大阪線・土師ノ里駅から北へ最短約1km 徒歩約
15
           〃   藤井寺駅から北へ最短約1.5km 徒歩約
25
Z なんで公園広場が盛り上がっている?
盛り上がっている公園広場    写真は、府営・藤井寺道明寺住宅の中央部にある
公園です。公営住宅地内の公園としては、全体の面
積の割には、広い公園だと言えるでしょう。
 よく見てください。この公園中心部で緑におおわ
れた広場が、少し盛り上がっているのがわかります
か? ゆるやかな階段もありますね。公園内の広場
にしては、ちょっと変わっていると思いませんか。
消えてしまった古墳
 この公園は、「道明寺盾塚(たてづか)古墳公園」といいます。ではこの広場は古墳なのでしょうか。残
念ながら、実は盾塚古墳そのものは、かなり以前に姿を消してしまっているのです。
 昭和
30年代に入って、大阪府内の人口増加に対応するために、各地に公営住宅が造られていきました。
藤井寺市内にもいくつかの府営住宅や公団住宅が建設されていきました。この場所にも、道明寺南住
宅」として、平屋の戸建て住宅が並ぶ府営住宅が造られました。この建設に伴って、盾塚古墳は姿を消
してしまったのです。古墳の跡地にも住宅が建ち並びました。
 盾塚古墳は、総長110m、後円部の直径46mという前方後円墳です古市古墳群の中では、最も古い
時期、4世紀末〜5世紀初めに造られた古墳です。後円部に比べて前方部が小さいことから、「帆立貝
形前方後円墳」とされています。今となっては、発掘調査記録としてしか存在しない古墳です。
真上から見る盾塚古墳公園 俯瞰した盾塚古墳公園
公園として復活した古墳
 平成時代に入ってからから、府営住宅の高層化建て替え事業が始まり、道明寺南住宅も新しい高層住
宅に変わりました。空から見た様子でわかるように、建物面積の占める割合がかなり小さくなっていま
す。空いた面積が、公園や駐車場に転換されました。このとき盾塚古墳が公園としてよみがえったの
です。
 空から見ると、古墳の形がよくわかります。建物と比べて見ると、古墳の大きさの程度もわかります
ね。もともとあった盾塚古墳の後円部の高さは6mだったのですが今の公園広場はずっと低いものにし
てあります。それでも、ありし日の盾塚古墳を想像させてくれるのには、十分な盛り上がり方ではない
でしょうか。
ありし日の盾塚古墳  左の写真は、1948(昭和23)年に当時占領駐留して
いた米軍によって空撮されたありし日の盾塚古墳の
様子がわかる写真です。すぐ近くに鞍塚古墳(前方
後円墳)と珠金塚古墳(方墳)がありましたが、どち
らも盾塚古墳とともに姿を消しました。小型古墳と
はいえ、三つの古墳が次々に消滅したのは惜しまれ
ることでした。
 蕃所山古墳赤面山古墳のように、当初から工夫
してその保存が図られた古墳もあれば、盾塚古墳などのように、やむを得ず消滅してしまった古墳もい
くつもあります。再び存在することができるようになった今、公園という形で復元されたのは、せめて
ものお返しということでしようか。
 なお、藤井寺市内には、墳丘に自由に登ることのできる現存の古墳がいくつかあります。市によって
古墳公園として整備された
古室山(こむろやま)古墳、頂上部に神社があり、昔から村の人々に利用されてきた
野中宮山古墳、戦国時代に城が築かれて墳丘が大きく変形してしまった津堂城山古墳などです。
   【盾塚古墳公園】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約800m 徒歩約12
              〃   道明寺駅から西へ約900m 徒歩約14
[ 幼稚園は花見の名所?
 きれいな満開の桜が見えます。ここは、市内のあ
る幼稚園の園庭です。遊具も見えますね。名前は、
市立藤井寺南幼稚園野中分園といいます。本園は
藤井寺南小学校のすぐ前にあります。南北に長い校
の中で、本園が北の方に寄っているため、通園が
遠くなる野中地区・青山地区の園児のために置かれ
ています。この分園は、かつて藤井寺南小学校の分
校だったこともありました。ここの園庭で見える桜
  幼稚園は花見の名所?
は、地域の人たちにとっては、ちょっとした花見の名所です。地区の人々によって夜桜見物用のぼんぼ
りも飾られます。えっ!幼稚園の庭で?と思いますね。
園庭から見える古墳の桜
 実は、見えている桜は幼稚園のものではなくて、おとなりの「野中宮山古墳」にあるものなのです。
古墳の山にたくさんの桜の木があるのです。幼稚園がある場所は、古墳の前方部です。後円部の頂上に
は、地区の氏神である野中神社があります。「宮山」という名前も、そのものずばりですね。
元藤井寺南幼稚園野中分園  学校や幼稚園になるずっと前には、お寺がありま
した。満願寺といいます。山頂部の神社とセットで
存在した宮寺(神宮寺)だったのですが、明治時代の
初めに神仏分離令が出され、明治5年に寺は廃寺と
なりました。そして、山頂部にあった宮が野中神社
として村社に定められました。寺の跡地が、学校や
幼稚園として利用されていったというわけです。さ
らに近年になって、周濠の南の部分を埋め立てて、
市立の野中宮山児童公園が造られました。
 残念ながら、野中分園は入園者減少により本園に
統合
され、2020(令和2)年3月末で閉園となりました。
利用されて残ってきた古墳
 野中宮山古墳は古代に築造されたものが現存しているのですが、必ずしも積極的に保存・保護されて
きたわけではありません。この古墳の場合、意識的な古墳の保存ではなくて、
古墳の利用”によって
古墳の存在が維持されてきたと言えるでしょう。長年に渡る人々の利用があったことで、結果として古
墳全体が保存されてきたのではないでしょうか。
 古墳の利用の例はほかにもあります
周濠の部分を利用して市立藤井寺西幼稚園(2020年3月末閉園)が
造られた鉢塚(はちづか)古墳、津堂八幡神社が置
かれ、現在は草花園や広場にも利用されている津堂城山古
があります。また
市野山(いちのやま)古墳の一部残っていた外濠の跡を利用して建てられた、市立第5保
育所の例もあります。
 野中分園のあった場所には、分園や満願寺があったことを示す跡は何も残っていません。唯一、地区
の会館に寺で使われていた釣鐘が残されているそうです。
   【野中宮山古墳】近鉄南大阪線・古市駅から北西へ約1.2km(後円部南東入口まで) 徒歩約18 
番外 どこが珍景?
 この様子、どこが珍景なのでしょうか?どこにで
もあるような、郊外の踏切の様子です。
 これは、珍景ではありません。番外の付録として
ご覧ください。
消えてしまった駅
 この踏切の線路の左側には、かつて駅がありまし
た。路線名は、近鉄・南大阪線です。この場所は、
藤井寺駅から1000mほど東の藤井寺5号踏切です。
  応神御陵前駅跡地1
応神御陵前駅跡地2  今はなき駅の名は、応神御陵前(おうじんごりょうまえ)駅と
いいます。
 上の写真で、 右手奥に進む方が藤井寺駅方面(西
向き )です。左の写真は、反対方向から撮ったもの
です。走っている電車の右側のフェンスで囲まれた
土地が、まさに応神御陵前駅のあった場所です。現
在も近鉄所有地のようで、近鉄不動産の管理地とな
っています。
 複線なので、当然ながら線路の北側(左)にもホー
ムがありました。後方の山は、左が仲津山古墳、右が古室山古墳です。
 鉄道マニア、特に近鉄ファンにとっては、うれしい話題ですね。いったい、いつの頃にその駅はあっ
て、いつ消えていったのでしょうか。

市内の駅のできてきた様子

 藤井寺市内の駅では道明寺駅がもっとも早
く、明治31年に開業しています。大正11年に、大阪鉄道
によって、道明寺駅から今の松原市に至るこの路線が開通され、藤井寺駅ができました。さらに、翌大
12年には、松原市から北へ進む路線が、当時の大阪天王寺駅(現大阪阿部野橋駅)まで開通します。
現在の南大阪線の誕生です。これで、藤井寺の人々は、一本の電車で大阪の街まで行けることになった
のです。
 そして1年後の大正13年、藤井寺駅と道明寺駅との間に土師ノ里(はじのさと)御陵前駅ができまし
た。この年、大阪天王寺駅は、大阪阿部野橋駅と改名されます。
 地図を見ると、土師ノ里駅と御陵前駅が、同時にこの位置に造られたわけが推察できますね。そうで
人口の多い大阪の街から、応神天皇陵允恭天皇陵仲津姫皇后陵 という天皇
皇后陵を参拝しに
来る人々の電車利用を考えたものでしょう。
 もともと、この路線で道明寺駅や藤井寺駅がつくられたのも、菅原公ゆかりの道明寺天満宮や、西国
五番札所として知られた葛井寺(ふじいでら)への参拝客を見込んでのことだったと思われます
。そこへさらに、
御陵参拝という時代背景が重なってくるわけです。御陵前駅は、昭和8年に応神御陵前駅」と改名さ
れました。「御陵前」という駅があちこちにできてきたからです天皇陵参拝が奨励されるという時代
の中でした。
応神御陵前駅の休止から廃駅へ
 やがて、太平洋戦争末期の昭和20年6月1
日、応神御陵前駅は、休止となります。そのちょうど1年
前、大阪鉄道(その当時は合併で関西急行鉄道となっていた)は南海鉄道と合併して(戦後再度別会社に分
離)、「近畿日本鉄道」という
在の社名に変わっています。
 休止といっても、事実上の
廃止の状態となっていました
が、手続きとして正式に廃駅
となったのは、なんと
昭和
49年7月20
日のことでした。
つまり、それまでも応神御陵
前駅は法律上は存在していた
のです。
 それから
40年以上、今、
つてそこが駅であったことを
教えてくれるものは、何も見
あたりません。
 Wの「沢田神社」のところ
で、駅間隔のアンバランスさ
を取り上げましたが、これで
そのわけがわかっていただけ
ると思います。
 右の地図で応神御陵前駅の
位置を示していますが、
当時の一般的な参拝コースだ
と思われます。
印の道は昭
和10年以降
にできたようです。
 地図では、この「藤井寺珍
八景」で取り上げた、沢田八
幡神社、赤面山古墳、盾塚古
墳公園の位置も見ていただけ
るように表示しています

応神御陵前駅・応神天皇陵周辺の地図
応神御陵前駅跡地図 
古墳の町の散策−土師ノ里駅から
 この辺りは、土師ノ里駅を起点として数時間あればゆっくり見て回ることができます。よく知られた
道明寺、道明寺天満宮をはじめ、仲津山古墳や市野山古墳、「修羅」の出土で知られる三ツ塚古墳、そ
して国史跡の鍋塚古墳などが駅の周りにあります。
 応神天皇陵の近くには、大鳥塚古墳、古室山古墳などもあります。さらに、興味と元気のある方は、
応神陵前の道を西へ進めば蕃所山古墳や野中宮山古墳、岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)アイセル・シ
ュラホール
、葛井寺、
辛國(からくに)神社などを見て、藤井寺駅にたどり着くことができます。
 機会があれば、ぜひ一度、古代史跡の町・藤井寺市を訪れてみてください。
   【応神御陵前駅跡地】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約800m 徒歩約13
 
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