みなさんの町には、「アレッ?」とか「なに?これ!」とか思うような場所や風景はあり
ませんか?
 どこの町にも、一つや二つは必ずありそうな、そんな藤井寺市の「ナニコレ」を、豆知識
として紹介してみます。
 街の中に船が!? 
 なんと、街の中に大きな船が! いったいこ
れは?
 手前には住宅地が、後方には大きなマンショ
ンなどが並んでいます。どう見ても港があるよ
うな場所には見えません。そもそも藤井寺市
大阪湾から20km近くも東に離れた奈良県に近
い所です。
もちろん、本物の船ではありません。
 これは、アイセル・シュラホールの愛称を持つ
市立生涯学習センターです。藤井寺南小学校
  街の中の船? 
  シュラホール のななめ向かいにあります。
モデルは埴輪の古代船

 この建物は、東側(右)が古代船の前方部を、
西側(左)が古代の大型木ぞり修羅(しゅら)
を、それ
ぞれモチーフとして造られています。
 古代船は、市内の古墳から出土した我が国最
大級の舟形埴輪にちなんでいます
修羅は、19
78
年に古墳周濠の地中から全国で初めて発見さ
た大型の古代木ぞりです。古代遺跡の多い藤
井寺市を象徴するものとして、モチーフに選ば
れました。
 ほかにも、前方後円墳の形と埴輪の色をモチーフにした市立図書館、埴輪の色をイメージし
た外壁の市役所などがあります。
 【アイセル・シュラホール 】近鉄南大阪線・藤井寺駅から南へ約700m 徒歩約11分 「藤井寺南小学校の周辺地図」
 なんで あっちにもこっちにも小山が?
 藤井寺市内を移動していると、街の中のあち
こちに小さな山が目に入ります。藤井寺市
って
山が多い所?
 いえいえ、そうではありません。藤井寺市は
  岡ミサンザイ古墳
  市野山古墳 大阪平野の南東のはしっこといえる位置にあり、
海沿いの大阪市など
よりは少し高い土地ですが、
高低差は小さく、ほとんど平地といってよい地
形です。つまり、山のない所なのです。では、
あの山は?
 神社やお寺の森にしては大きすぎますね。里
山にしては、山地から離れていて、平地に点在
するのも不自然です。
 実は、これは自然の山ではなく、言うなれば
「人工の山」で、藤井寺市内にいくつもある大
型の前方後円墳です。

  仲津山古墳
藤井寺市は古墳の町
 藤井寺市はとなりの羽曳野市とと
もに、古市(ふるいち)古墳群という古墳の集まっている場所に
あります。古墳群のほぼ中心ともいえます。古市古墳群は全国有数の古墳群で
空から見るとた
くさんの古墳が点在しているのがわかります。前方後円墳以外の古墳も合わせて、現存数40数
基の古墳でできている古墳群です。この大きな古墳群の中に市域があることで
藤井寺市にいろ
いろな特徴がもたらされることとなりました。
 写真は上から岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)市野山古墳(允恭天皇陵)仲津山古墳(仲姫
皇后陵)
です。ほかにも、いろいろな古墳があります。詳しくはリンクページで見てください。
三  住宅地の中にロータリー?
  住宅地の中にロータリー?  静かな住宅街です。街路の中を行くと、とつ
ぜん環状道路が現れます。なんでこんな所にラ
ウンドアバウトが?
 人通りも車の通行も少なく、幹線道路から入
った住宅街の中です。どう見ても、ラウンドア
バウトが必要な場所ではなさそうです。
伝承の古墳
 これは、住宅地が開発されるとき、街路の中
に残された小さな古墳で、
蕃所山(ばんしょやま)
という名の古墳です。地元では古くから「モッ
コ塚
」ともよばれてきました。誉田御廟山古墳
(応神天皇陵)
の造成工事に使用したモッコなど
の道具を埋めて造った塚なので、この名が付い
たと伝承されています。。直径
22mの円墳の形
をしていますが、詳しい調査はされておらず、
  蕃所山古墳
本来の墳丘の全体像や誉田御廟山古墳との関係など、よくわかっていません。
 藤井寺南小学校の校区にあり、2001年に国史跡に指定されています。

古墳を守った街づくり
 昭和30年代前半に、電鉄会社によってこの住宅地の開発が行われ
それまで田んぼの中に島の
ように存在
していたこの古墳は、道路で囲む形で残されました。つまり、古墳を残すことを前提
にしてこの辺りの道路設計を考えた、ということになります。その結果、閑静な住宅街の中に、
回る車もたまにしか見ないミニラウンドアバウトが誕生したわけです。
 奈良県明日香村の高松塚古墳で壁画が発見されて、明日香ブームや古代史ブームが起きるより
も、10年以上前のことです。誰が葬られているかもわからず、形も変化している小さな古墳を、
どうしてこのような形で守り残そうとしたのでしょうか。文化財保護・保存の観点を第一に考え
たとすれば、たいした先見の明だと思われます。しかしながら、古墳という文化財に対する当時
の世間一般の見方・考え方が、必ずしも今ほど保護・保存に重きを置くものではなかった時代で
す。一方では、葬られた人に対する恐れ、安らかに眠っていてほしいという気持ちなど、地元の
人々の思いも大きな背景ではなかったか、と考えることもできます。
 市内には、長い歴史の中で私有地化したり、町が都市化していったりする中で、消滅していっ
た小型古墳がたくさんあります。今は写真や調査資料でしか知ることができません。それだけに
この蕃所山古墳が住宅開発の過程をくぐりながらも現存していることは、貴重な例として評価さ
れてよいでしょう。
 なお、この住宅地の中には、蕃所山古墳の150mほど北方に、もう一つサンド山古墳という古墳
が残されていますが、変形が大きく、墳丘の形は不明です。
 【蕃所山古墳】近鉄南大阪線・藤井寺駅から南東へ約1.5km 徒歩約25 
四 神社の境内を電車が   
  神社の中を電車が!  静かな神社の境内に、突然、カンカンカンと
いう踏切の警報音が鳴りひびき、赤いランプが
点滅を始めます。しばらくすると、境内の大木
の陰から現れた電車が、数秒間で拝殿への参道
を横切って行きました。なんでこんな所に電車
が?
 左の写真を見ると、鳥居や石燈籠と奥の拝殿
との間を電車が通っています。間違いなく、こ
こは神社の境内であることがわかります。下の
写真で、もっとはっきりわかります。つまり、
境内に電車が通っているという、全国的にも数
少ない珍しい神社なのです。

 神社の名は、澤田八幡神社といい、地元沢田
地区の氏神です。江戸時代の初め
当時の澤田
の氏神として造られました。
境内を横切る電車路線
 ここを通る電車は
大阪阿部野橋(あべのばし)
を起点とする近畿日本鉄道南大阪線です。沢
田八幡神社は
市内の藤井寺駅と土師ノ里(はじの
さと)
駅の間にあります。
  沢田八幡神社の踏切
 市内を走る近鉄線のルートを見ると、駅の間隔がたいへんアンバランスであることがわかりま
す。これは、この鉄道路線が、当時の集落分布だけでなく、西国三十三カ所
第五番札所の葛井
(ふじいでら)
、菅原道真ゆかりの道明寺(どうみょうじ)道明寺天満宮允恭天皇陵仲姫皇后陵
など、
これらを参拝する人々の利用考えて駅を設置したことからきていると思われます。
 集落の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って走らせることにした結果、陵の堤に続く
斜面にあった沢田八幡神社を横切ることになったのでしょう。それにしても、当時の村の人々が
よく承知したものだと思います。何しろ、鎮守の杜の境内を列車が走り抜けると
いうのですから。
しかも、この路線の開通当時は蒸気機関車が列車を引いていました。電化されたのは開通の翌年
(1923年)で、大阪天王寺駅(翌年大阪阿部野橋駅に改称)まで開通した時でした。
時代を先取った澤田村
 この路線の部分が開通したのは
、1922年(大正11年)、近鉄の前身、大阪鉄道によってです。
村々が近代化する中で、村の人たちは将来を見据えていち早く鉄道の重要性を認識し、沢田地区
に駅(大正13年・土師ノ里駅ができる)ができることを待望したのでしょうか。この線路建設のた
めに、地区の共有地の一部が大阪鉄道に無償で譲渡されています。
 因みに、今の藤井寺市域となる14の村々の中で、学制発布の翌年、明治6年にいち早く小学
校を開設したの
も、この沢田村の人たちでした。周辺8カ村の連合で沢田村の極楽寺に、河内国
第二十四番小学校(のち沢田小学、沢田尋常小学校、現・道明寺小学校)を開校させました。当
時、小学校開設の資金の多くは村民の負担でした。全国各地で、これを不満とする人々の暴動が
起こっています。 そんな中での早い学校開設だったのです。鉄道といい、学校といい、近代化
へ向けて進取の心で受け入れていった、当時の沢田村の人々の気概が感じられる歴史です。
 神社の境内は、昔から子どもたちの遊び場でもありましたが、最近は遊ぶ子を見るのも少なく
なりました。遊びの種類と場所が合わないのでしょうか。電車が通っている場所でありながら、
不思議と事故の話は聞きません。神様の前だからでしょうか。拝殿のすぐ前に2本、後ろに1本
クスの大木があります。おそらくは、神社が造られた頃に植えられたものでしょう。
400
近くはたっていると思われる立派な古木です。
 【澤田八幡神社】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から西へ約400m 徒歩約6分 
五 なんで急に曲がっている?
  急に曲がる道路  直進してきた車が小さな急カーブを回って、
向こうに消えて行きます。ここは、大阪府松原
市と奈良県天理市を結び、名古屋市へとつなが
ってい西名阪自動車道の脇下を通る北行きの
側道です。普通は高速道路に沿って並行するよ
うに造られるものですが、ここはどうして急に
曲がっているのでしようか?
 下の地図でわかるように、直進している側道
が、この部分で急にポコリと外側に曲がり出て
います。その内側には、なんと、高速道路の下
にまたがって古墳があります。この古墳の名は赤面山(せきめんやま)古墳といいます。
 もうおわかりですね。この小さな古墳を壊さないで保存するために、このような道路が造られ
たのです。初めて車で通る運転者は、「なんで側道がこんなに急に曲がるんや!」と、ビックリ
ものです。
 
高速道路と古墳の保存
 この赤面山古墳は、昭和
31年に国史跡の指
を受けています。指定を受けていることが、
古墳保存の大きな理由でしょうし、国の指導も
あったことでしょう。その一方で、高速道路建
設工事を進めた人たちにも、敢えて側道を迂回
させてでも、この小さな古墳を保存することへ
の思いがあったのではないでしょうか。
 完成すれば多くの自動車が高速で走る道路で
す。道路建設には何年も工事が続きます。どち
らも、日々安全を第一に願わずにはおれないこ
赤面山古墳地図
  赤面山古墳 とです。そのためにも、この古墳に葬られた人
には、安んじて眠っていただいていることが、
何よりも大切になってくる・・・そんな思いも
あったのでは、と想像してみたくなります。
 この建設工事は、昭和40年前後の時期でし
た。これも
古代史ブームよりも6,7年前のこ
とです。当時としては、この古墳の保存にかけ
たエネルギーのすごさを感じます。側道を曲げるために買収用地を増やしただけでなく、もう一つ
設計上の尽力の跡を見ることができます。
古墳を守る道路設計
 下の写真は、高速道路の高架の下側と橋脚の様子です。古墳の上の上り車線と、右の下り車線
とを比べて見てください。右が本来の設計通りの造りです。左は、古墳の位置に橋脚がぶつかる
ため、橋脚の間隔を長くして、古墳を完全にまたぐように造られています。長くなった分、強度
を高めるために、コンクリートの橋桁の下部にアールを付けて、この部分だけ特別な造りになっ
ています。現地で見ると、その違いがはっきりとわかります。
 一部に特別な設計をするということは、当然、余分に手間と費用がかかるということです。こ
のように手厚く保存の措置がとられた赤面山古墳ですが、本来どのような古墳だったのか、実は
よくわかっていなかったのです。
従来の推定よりも大きかった古墳
 現在見える形は円墳のように見えますが、元々は一辺
15m、高さ約2mの方墳だと考えられてき
ました。2016年2月、墳丘裾部に掛かる3ヵ所のトレンチ調査が市の文化財保護課によって行わ
れ、初めて墳丘端が確認されました。それによって、この方墳の一辺は約
25mであると推定がで
き、従来考えられてきたよりも大きい古墳であることがわかりました。
 北側裾部では、円筒埴輪2基が原位置で発見され、円筒埴輪列と確認されました。埴輪の間隔
が1.6mと、古市古墳群の他の古墳の円筒埴輪列に比べてかなり広いという特徴があります。こ
の埴輪は、まだ窯を使わない時期のもので、野焼きで作られたものです。他にも盾・甲冑・衣蓋
(きぬがさ)などの形象埴輪が出土しています。埴輪の特徴から、赤面山古墳は4世紀末から5世紀初
頭のものと考えられています。
 赤面山古墳は、古市古墳群の現存古墳の中では最も小規模なものの一つですが、そうであるが
故に、古墳の保護・保存を考える上で象徴的な存在となっている古墳でもあります。高速道路と
いう、都市化や現代インフラを象徴する建造物と、見事に共存できた貴重な例として、もっと注
目されてよい古墳だと思います。藤井寺市内では、民有地となっていたいくつもの小古墳が、戦
後の道路建設や住宅地開発などで消滅しています。その中には、赤面山古墳よりも大規模な古墳
や、学術的に貴重な資料となる豊富な出土物が発掘された古墳もありました。今となっては残念
の一語に尽きますが、「赤面山古墳」の存在がそれらの消滅古墳の墓碑銘に代わるものとなって
くれることでしょう。
 【赤面山古墳】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約1.1km 徒歩約17 
六  なんで川の横に川が?
川に並行する川
 写真の左に小さな川が流れています。ところ
が、よく見ると、その右の方にもう一つ大きな
川が見えています。この大きな川は、大阪府内
では淀川に次いで2番目に大きな
大和川(やまとが
わ)
です。奈良盆地で集まるいくつもの支流をま
とめ、山地の切れ目から大阪平野に入り、大阪
  川の横に川?
湾へと流れていきます。こんな大きな川の堤防の下に、もう一つの川が並行して流れている。な
んだか変ですね。大和川に流れ込んで行くのならわかりますが、大和川に沿って併行して行くの
はなぜでしょうか。
  空から見た大和川と落堀川 理由は300年前に
 小さい方の川は、落堀川
(おちぼりがわ)といいま
す。このなぞには、300年余り前の歴史が関
わっています。 実は現在の大和川は、人の手
によって造られた人工の川なのです
1704年に
大和川付け替えの大工事が行われました。藤井
寺市の北東部
の辺りから、大阪湾へ向かって西
に流れる新しい川を造ったのです。
 それまで、大和川は大阪平野に入ると、何本
かの川に分かれて、北へ向かって流れて行っていました。それは、この辺りの土地は南が高く、
北が低くなっていたからです。ところが、何本にも分流したことで流れが遅くなり、川底に砂が
たまっていくことをくり返しました。その結果、これらの川は、水面が周りの土地よりも高くな
天井川となっていったのです。この天井川が流れていた地域では
昔から洪水の被害に苦しん
できました。
 洪水をなくしたいという人々の願いは、江戸時代の中頃近くになって、約50年にも及ぶ請願
運動となり、やがて、大和川の流れそのものを変えてしまうという、大事業計画となって実現す
ることになったのです。今なら、一大公共事業というところでしょう。幕府と幕府が命じた大名
によって工事が行
われました。工事は、長さ約14km、川幅180mの川を造るというものでしたが、
予定よりもずっと早く終わり、わずか8ヶ月で完成しました。驚異的なスピードです。機械化の
進んだ今の時代でも、とてもこんな期間に完成させることはむずかしいでしょう。
付け加えられた工事
 工事を進めていく中で、ある大切な工事が付け加えられました。それは、新しくできる大和川
に並行して水路を造るというものです。それが落堀川なのです。
いったい、なんのためなのでし
ょうか。
 新大和川は、南から北へ傾斜していってる土地に、東から西へ横向きに流すとい
うものでした。
「横川」といわれるものです。本来なら北へ流れていくのが自然の流れの向きとなる地形で、い
わば無理に横向きに流そうとしたため、大きな問題がありました。
 もともとこの辺りには、地形に合わせて南か
ら北へ向かって流れる小さな川や水路がたくさ
んありました。それらの流れが、新大和川の堤
防でさえぎられてしまうことになるのです。新
大和川は、土地を掘って造るのではなく、平地
に土を積み上げて堤防を築き、その間に水を流
すというものでした。そこへもとからあった北
行きの流れを流し込もうとしても、水位が合わ
ず、大雨の時には大和川の水が大量に逆流して
くることになります(断面図を参照)。そのため
落堀川と大和川の水の流れ
南から来る流れは、新大和川に注ぎこませるわけにはいきません。かといって、このままでは堤
防で流れが止められ、堤防の下に水がたまってしまいます。この問題を解決するものとして、落
堀川が造られることになったのです。
 堤防の下に並行して排水路を造
り、南から流れて来る水を集めて、大和川と並行して流します。
西の方へ流していって、高低差を合わせやすい所で大和川に流し込む、というものです。「落堀
川」という名前の由来も、これでわかりますね。
現代に続く問題
 落堀川を造るという解決策は、技術的にも大変よく考えられたものでした。落堀川は、今でも
その役目を果たしています。ところが、時代が変わり、現代になるほど新たな問題が起こってき
ました。
 戦後の大阪府内の人口急増の中で
新大和川の南の地域でも急速に都市化が進みましたたく
さんあった水田や畑が次々と住宅地などに変わっていき、必要度の減ったため池が次々と姿を消
していきました。その結果、大量の雨が降ったときに、一時的に水をたくわえてくれる池や水田
が不足していったのです。おまけに、都市化で住宅や舗装された道路が増え、雨水のしみ込む土
地はどんどん減っていきました。地上に降った雨水は、一斉に側溝や下水路に流れ込み、昔から
あった小さな川は、一気に増水するようになりました。そして、それらの水は、たいへんな勢い
で落堀川へと流れ込んでくるのです。
 もともと落堀川は横川なので、流れの勾配は小さく、ゆっくりしか流れない川です。そこへ一
気に大量の雨水が集まるので、しばしば落堀川や落堀川に注ぎ込む川で
溢水が起きるようにな
りました。水害です。江戸時代よりも何かと進んできたはずの現代社会になるほど
水害が増え
るという、皮肉なことになりました。
 この新たな問題を解決するために、藤井寺市内に2カ所の排水ポンプ場が造
られました。落堀
川に集まった水を、大型排水ポンプで直接大和川へ流すという役目です。また、下流の松原市や
堺市では、落堀川(下流では別の名)の水が大和川に流れ込みやすいように、逆流しにくい新しい
放水路が造られています。これらが完成してからは、落堀川が溢れて水害が起きるということは
なくなりました。
 【落堀川】藤井寺市船橋町〜松原市大堀4丁目  大堀以西は「今井戸川」
      近鉄南大阪線・土師ノ里駅から北へ最短約1km 徒歩約
15
         〃   藤井寺駅から北へ最短約1.5km 徒歩約
25
  なんで公園広場が盛り上がっている?
  盛り上がっている公園広場  写真は、府営・藤井寺道明寺住宅の中央部に
ある公園です。公営住宅地内の公園としては、
全体の面積の割には、広い公園だと言えるでし
ょう。
 よく見てください。この公園中心部で緑にお
おわれた広場が、少し盛り上がっているのがわ
かりますか? ゆるやかな階段もありますね。
公園内の広場にしては、ちょっと変わっている
と思いませんか。
消えてしまった古墳
 
この公園は、「道明寺盾塚(たてづか)古墳公園
といいます。ではこの広場は古墳なのでしょう
か。残念ながら、実は盾塚古墳そのものは、か
なり以前に姿を消してしまっているのです。
 盾塚古墳公園 
 昭和30年代に入って、大阪府内の人口増加に対応するために、各地に公営住宅が造られてい
きました。藤井寺市内にもいくつかの府営住宅や公団住宅が建設されていきました。この場所に
も、
道明寺南住宅」として、平屋の戸建て住宅が並ぶ府営住宅が造られました。この建設に伴
って、盾塚古墳は姿を消してしまったのです。古墳の跡地にも住宅が建ち並びました。
 盾塚古墳は、総長
110m、後円部の直径46mという前方後円墳です古市古墳群の中では、最
も古い時期、4世紀末〜5世紀初めに造られた古墳です。後円部に比べて前方部が小さいことか
ら、「帆立貝形前方後円墳」とされています。今となっては、発掘調査記録としてしか存在しな
い古墳です。
公園として復活した古墳
 20年位前から、府営住宅の高層化建て替え事業が始まり、道明寺南住宅も数年前に新しい高
層住宅に変わりました。空から見た様子でわかるように、建物面積の占める割合がかなり小さく
なっています。空いた面積が、公園や駐車場に転換されました。このとき
盾塚古墳が公園とし
てよみがえったのです。
 空から見ると、古墳の形がよくわかります。建物と比べて見ると、古墳の大きさの程度もわか
りますね。もともとあった盾塚古墳の後円部の高さは6mだったのですが
今の公園広場はずっと
低いものにしてあります。それでも、ありし日の盾塚古墳を想像させてくれるのには、十分な盛
り上がり方ではないでしょうか。
  ありし日の盾塚古墳  左の写真は、昭和23年米軍空撮のありし日の
盾塚古墳の様子がわかる写真です。すぐ近くに
鞍塚古墳(前方後円墳)と珠金塚古墳(方墳)が
ありましたが、どちらも盾塚古墳とともに姿を
消しました。小型古墳とはいえ、三つの古墳が
次々に消滅したのは惜しまれることでした。
 蕃所山古墳赤面山古墳のように、当初から
工夫してその保存が図られた古墳もあれば、盾
塚古墳などのように、やむを得ず消滅してしまった古墳もいくつもあります。再び存在すること
ができるようになった今、公園という形で復元されたのは、せめてものお返しということでしよ
うか。
 なお、藤井寺市内には、墳丘に自由に登ることのできる現存の古墳がいくつかあります。市に
よって古墳公園として整備された
古室山(こむろやま)古墳、頂上部に神社があり、昔から村の人々に
利用されてきた野中宮山古墳、戦国時代に城が築かれて墳丘が大きく変形してしまった津堂城
山古墳
などです。
  【盾塚古墳公園】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約900m 徒歩約14 
  幼稚園は花見の名所?
 きれいな満開の桜が見えます。ここは、市内
のある幼稚園の園庭です。遊具も見えますね。
名前は、市立藤井寺南幼稚園野中分園といい
ます。本園は、藤井寺南小学校のすぐ前にあり
ます。南北に長い校区の中で、本園が北の方に
寄っているため、通園が遠くなる野中地区・青
山地区の園児のために置かれています。この分
園は、かつて藤井寺南小学校の分校だったこと
もありました。ここの園庭で見える桜は、地域
 幼稚園は花見の名所? 
の人たちにとっては、ちょっとした花見の名所です。地区の人々によって夜桜見物用のぼんぼりも
飾られます。えっ!幼稚園の庭で?と思いますね。
園庭から見える古墳の桜
 実は、見えている桜は幼稚園のものではなくて、おとなりの野中宮山古墳にあるものなので
す。古墳の山にたくさんの桜の木があるのです。
  藤井寺南幼稚園野中分園  幼稚園がある場所は、古墳の前方部です。後
円部の頂上には
地区の氏神である野中神社
あります。「宮山」という名前も、そのものず
ばりですね。
 学校や幼稚園になるずっと前には、お寺があ
りました。満願寺といいます
山頂部の神社と
セットで存在した宮寺(神宮寺)だったのですが、
明治時代の初めに神仏分離令が出され、明治5
年に寺は廃寺となりました。そして
山頂部に
あった宮が野中神社として村社に定めら
れまし
た。寺の跡地が、学校や幼稚園として利用されていったというわけです。さらに近年になって、
周濠の南の部分を埋め立てて、市立の野中宮山児童公園が造られました。
利用されて残ってきた古墳
 この古墳の場合、意識的な古墳の保存ではなくて
、“古墳の利用”と言えるでしょう。しかし、
人々の利用があったことで、結果として古墳全体は保存されてきたとも言えるのではないでしょ
うか。
 古墳の利用の例はほかにもあります
周濠の部分を利用して市立藤井寺西幼稚園が造られた
(はちづか)古墳
、津堂八幡神社が置
かれ、現在は草花園や広場にも利用されている津堂城山古墳
があります。また、市野山(いちのやま)古墳の一部残っていた外濠の跡を利用して建てられた、
立第5保育所
の例もあります。
 野中分園の場所には、満願寺があったことを示す跡は何も残っていません。唯一、地区の会館
に、寺で使われていた釣鐘が残されているだけです。
  【野中宮山古墳】近鉄南大阪線・古市駅から北西へ約900m(後円部南東入口まで) 徒歩約19 
番外  どこが珍景?
 この様子、どこが珍景なのでしょうか?どこ
にでもあるような、郊外の踏切の様子です。
 これは、珍景ではありません。番外の付録と
してご覧ください。
消えてしまった駅
 この踏切の線路の左側には、かつて駅があり
ました。この路線は、近鉄・南大阪線です。
 廃止駅跡地
  応神御陵前駅跡地  藤井寺駅から1000mほど東に行った所に、この
場所はあります。今はなき駅の名は
応神御陵
(おうじんごりょうまえ)といいます。
 上の写真で、右手奥に進む方が藤井寺駅方面
(西向き)です。左の写真は、反対方向から撮っ
たものです。通っている電車の横が、まさにホ
ームがあった場所なのです。後方の山は、左が
仲津山古墳、右が古室山古墳です。 
 鉄道マニア、特に近鉄ファンにとっては、うれしい話題ですね。いったい、いつの頃にその駅
はあって、いつ消えていったのでしょうか。

市内の駅のできてきた様子

 藤井寺市内の駅では道明寺駅がもっとも早く、明治31年に開業しています。大正
11年に、
大阪鉄道によって、道明寺駅から今の松原市に至るこの路線が開通され、藤井寺駅ができまし
た。さらに、翌大正
12年には、松原市から北へ進む路線が、当時の大阪天王寺駅(現大阪阿部
野橋駅)まで開通します。現在の南大阪線の誕生です。これで、藤井寺の人々は、一本の電車で
大阪の街まで行けることになったのです。
 そして1年後の大正
13年、藤井寺駅と道明寺駅との間に土師ノ里(はじのさと)御陵前駅
できました。この年、大阪天王寺駅は、大阪阿部野橋駅と改名されます。
 地図を見ると、土師の里駅と御陵前駅が、同時にこの位置に造られたわけが推察できますね

そうです
人口の多い大阪の街から、応神天皇陵允恭天皇陵仲津姫皇后陵 という天皇陵
を参拝しに来る人々の電車利用を考えたものでしょう。
 もともとこの路線で道明寺駅や藤井寺駅がつくられたの
も、菅原公ゆかりの道明寺天満宮
西国五番札所として知られた葛井寺(ふじいでら)への参拝客を見込んでのことだったと思われ
ます。
そこへさらに、御陵参拝という時代背景が重なってくるわけです。御陵前駅は、昭和8年に

神御陵前駅
」と改名されました。
御陵前」という駅があちこちにできてきたからです天皇陵
参拝が奨励されるという時代の中でした。
応神御陵前駅の休止から廃駅へ
 やがて、太平洋戦争末期の昭和
20年6月1日、応神御陵前駅は、休止となります。そのちょう
ど1年前、大阪鉄道(その当時は合併で関西急行鉄道なっていた)は南海鉄道と合併して(戦後
再度別会社に分離)、「近畿日本鉄道」という現在の社名に変わっています。
 休止といっても、事実上の廃止の状
態となっていましたが、手続きとして
正式に廃駅となったのは、なんと

49年7月20日のことでした。つま
り、それまでも応神御陵前駅は、法律
上は存在していたのです。
 それから
30年以上、今、かつてそこ
が駅であったことを教えてくれるもの
は、何も見あたりません。
 四の「沢田神社」のところで、駅間
隔のアンバランスさを取り上げました
が、これでそのわけがわかっていただ
けると思います。
 地図では、この「藤井寺珍八景」で
取り上げた
沢田八幡神社赤面山古
盾塚古墳公園の位置
も見ていただ
けるように表示しています
古墳の町の散策−土師ノ里駅から
 この辺りは、土師ノ里駅を起点とし
て、数時間あればゆっくり見て回るこ
とができます
よく知られた道明寺
道明寺天満宮をはじめ、仲津山古墳
市野山古墳
修羅」の出土で知ら
れる三ツ塚古墳
、そして国史跡の鍋塚
古墳
などが駅の周りにあります。
応神御陵前駅跡地図
 応神天皇陵の近くには、大鳥塚古墳古室山古墳などもあります。さらに、興味と元気のある
方は
応神陵前の道を西へ進めば蕃所山古墳野中宮山古墳岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)
アイセル・シュラホール葛井寺
辛國(からくに)神社などを見て、藤井寺駅にたどり着くことがで
きます。
 機会があれば、ぜひ一度、古代史跡の町・藤井寺市を訪れてみてください。   
  【応神御陵前駅跡地】近鉄南大阪線・土師ノ里駅から南西へ約800m 徒歩約14 
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