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| 昔の道明寺東小学校区の様子 | ||||
| 1948年(昭和23年)の様子 | 1961年(昭和36年)の様子 | |||
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| 1948年2月20日 米軍撮影 | 1961年5月30日 国土地理院撮影 | |||
| 太平洋戦争の敗戦後、連合国占領軍として日本に駐留していたアメリカ軍 によって撮影されたものである。米軍は、占領開始後から昭和29年まで全国 の空中写真撮影をおこなったが、当時最新の航空写真撮影技術で撮影された これらの写真は、戦後間もない時期の国土の様子を知る上で、貴重な写真資 料として現在も大いに役立っている。日本政府の依頼で、約20万枚近くの複 製フィルムがGHQから提供され、現在は国土地理院が保管している。 この10年ほど後には、日本は高度経済成長に向かう時代となる。その時 代は、日本の町や村の様子を大きく変貌させてしまう開発と建設の時代であ った。その大きな変化の前の様子を目で見て知ることができるのが、これら の米軍写真なのである。 一方、戦後になるまで、我が国では地図の作成は陸軍参謀本部が担ってお り、国土の地図や航空写真は軍事機密を含むものとして、厳しく統制管理さ れていた。したがって、このような航空写真が一般市民の目に触れることは 普通にはなかったのである。加えて、全国土の正確な水平撮影写真を作成す るということは、残念ながらできていない。そういう意味からも、戦後すぐ に撮影が始まった米軍写真は資料価値が高いのである。 要するに、これらの写真より古い時代の藤井寺市の様子を見ることができ る水平空中写真は無いということなのである。 |
昭和36年、東京オリンピック開催の3年前の頃の写真である。地図の 作成は国土地理院に変わり、地図製作のための空中写真撮影も担っていっ た。 現在までに数度の撮影事業がおこなわれているが、昭和40年代からは カラー写真に変わり、写真の精密さも格段に向上している。一般にも公開 されていて、全国土の好きな場所の写真を購入することができる。また、 航空写真撮影を事業とする民間会社も次々とできて、日常に航空写真を目 にすることは珍しくなくなった。 現在、いくつものWebサイトで地図や空中写真を見ることができる。 空中写真はかなり大きな縮尺まで見ることができ、道路や街の様子をくわ しく調べることができるようになった。 「藤井寺市史第十巻史料編八上」には、米軍写真に始まって各時期の写 真が収録してあり、市全体の変化を見ることができる。地図と共に、各時 期の様子を比べてみると、変化の大きさがよくわかる。 |
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| 今とは大きなちがい 上の現在の写真と比べると、その変化の 大きさに驚かされます。60年ほどの間にこれほど変わるのかとい う感じがします。まさに、農村から都市へ、の見本のような変化 ですが、これは日本中の至る所で起こったことでもあります。 ゆっくりだった戦前の変化 校区の昔の地図と比較しながら見 ると、大変興味深いものがあります。鉄道や新しい道路 (現在の 国道旧170号)ができていることを除けば、明治時代の初め頃とそ んなには変わっていないことがわかります。いかに戦前の変化が ゆっくりとしたものであったかをよく示しています。 広がる水田地帯の中に、北條村の集落や黒田神社がまるで島の ように存在しているのが目を引きます。この地域が圧倒的に農地 の多い農村地帯であったことを見事に見せてくれています。 新しい道路建設の計画も、今よりはずっとしやすかったのでは なかろうかと思われます。 |
高度経済成長とともに 左の写真から13年後の撮影ですが、地 域に一定の変化が始まっているのがわかります。時はすでに高度 経済成長の時代に入っており、大都市大阪の近郊にある衛星都市 は、次々とその姿を変え始めていました。藤井寺市でも近郊農村 地帯の姿から衛星住宅都市への変化が進み出していました。 藤井寺市域は当時は美陵町(みささぎちょう)で、写真の5年後、 昭和41年11月1日には市制を施行することになります。その間、 市の人口の増え方は激しく、わずか5年で1.5倍にもなっていま す。 昭和30年代初めに市内の2か所で住宅公団による団地建設がお こなわれ、また、府や市による市内各地での公営住宅の建設も進 められ、昭和30年代中頃から急激な人口増加が始まったのです。 写真の左上に、当時できたばかりの府営住宅の一つが半分ほど見 えます。 新しい府道ができる 写真で校区の様子を見ると、土師ノ里駅 に近い市野山古墳の周りや国府台地の上、国道沿いや北條地区な どに家の増えていることがわかります。また、工場と思われる大 型の建物もあちこちにできています。この5年ほど前には、東西 向きの新しい幹線道路として、堺大和高田線が完成しています。 それまでの長尾街道に替わる期待のバイパス新道路でした。 その昔、この地では東高野街道と長尾街道が交わり、東西南北 に人々が行き交う交通の要地でしたが、今また、それぞれのパイ パス道路である国道旧170号と府道とが交差することになったので す。 学校が増える 急な人口増をうけて、写真の前年昭和35年には 市内で3校目の小学校、藤井寺南小学校が開校しています。現在 の藤井寺市域にあった小学校は、明治6年以来ずっと、藤井寺小 学校と道明寺小学校の2校だけだったことを考えると、いかにこ の数年間の人口増が激しかったかがわかります。 |
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| わかる国府台地の形 写真の 左下に市野山古墳がありますが、 その東側と北側に、周りの水田地 帯よりも少し濃さのうすい部分が 広がっています。この部分は国府 (こう)台地とよばれる地形で、この 辺りの遺跡の分布と密接なつなが りがあります。 有名な国府遺跡(∴)を初め、市 野山古墳とその陪冢(ばいちょう)と 考えられる小古墳の数々がこの台 地上に造られています。 また、国府村の集落とその分村 の惣社(そうしゃ)村の集落もここに できていて、村社となる国府八幡 神社(■)や志貴縣主(しきあがたぬし) 神社(■)なども 共に存在します。 |
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| 国府台地の地形 |
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| つまり、居住地である集落は台地上につくり、一段低くて水利 の便が良い低地は水田として利用するという、土地の使い分けが、 見事に表れている様子です。 現在もこの台地がつくっている土地の段差は、はっきりと残っ ており、周辺を歩くとあちこちで見ることができます。 |
さらに、写真から6年後の昭和42年4月には、道明寺東小学校 が4番目の小学校として開校することになります。学校用地の場 所を写真で見ると、水田とは異なる白っぽい色に変わっています。 造成が始まっていたのでしょうか。 |
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西側から見た国府台地の様子 府道堺大和高田線がまだ通っておらず、写真下部の右 寄りに見える道明寺小学校(文)の校舎の様子からも、昭 和29年(1954年)の撮影だと思われる。 南(写真右側)から北へ延びる国府台地の上に、市野山 古墳を中心として集落や神社などが展開している様子が よくわかる。台地より低い部分が、当時は水田地帯であ り、台地の形がわかりやすい。左端に見える大和川に接 した集落は現・船橋町の中心部(●)。 写真の上方で横Y字形に見える白い筋は、大和川(▼) と石川(▼)。南から来る流れが石川で、ここで合流して 大阪湾へ向かう。 写真で、市野山古墳の真上で石川に隣接して見える平 地部分(★)が、道明寺東小学校の敷地となる場所である。 右端の下部で弧線を描いているのは近鉄南大阪線(▲) で、これをまたいで市野山古墳の横を南北に通るのが現 |
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| 国道旧170号(▲)。この交差点のそばに、今は姿を消してしまった古墳が見える。近鉄線の左側に接して国道170号の上側に見えるのが
唐櫃山(からとやま)古墳(■)。 下側で近鉄線と道明寺小学校との間に見えるのが高塚山古墳(■)。この二つの古墳は、府道堺大和高田線の建設に伴って墳丘が削られて姿を消した。近鉄線を はさんで高塚山古墳の右に見えるのが、この交差点付近で唯一現存する鍋塚古墳(■)で、国史跡となっている。 石川の写真右端に見える橋は石川橋(→)。後に府道堺大和高田線の建設で道路が拡幅され、橋も現在の石川橋に変えられた。この橋から下側に白く続いて 見えるのは、長尾街道(→)で、ここから国府地区の集落を通って市野山古墳の周濠横を通り、さらに道明寺小学校の北側に接して西へ進む。 写真は「大阪府 −新風土記− 1958 岩波写真文庫29」〈 1958年(昭和33年) 岩波書店 〉より |
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| 道明寺東小学校区図 藤井寺市の地図 | |
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