道明寺東小学校区図

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道明寺東小学校区図

新大和橋 府道12号 河内橋 新大和橋 土師ノ里駅 近畿日本鉄道道明寺線 近畿日本鉄道南大阪線 府道12号・堺大和高田線 道明寺中学校 柏原市役所 長池広場 養源寺 宝城寺 国道旧170号 南河内サイクルライン 北條雨水ポンプ場 藤井寺市船橋浄水場 藤井寺市柏原市学校給食センター 老人福祉センター・松水苑 市立第五保育所 藤井寺市役所土師の里支所 柏羽藤消防署藤井寺分署 市野山古墳 宮の南塚古墳 衣縫塚古墳 国府遺跡 大山咋神社 黒田神社 了信寺 潮音寺 蓮休寺 惣社保育園 社会福祉法人好老会 道明寺東幼稚園 中国電線工業(株) 志貴縣主神社 国府八幡神社 梅が園善徳保公園 道明寺東小学校 道明寺小学校 大和川 落堀川 柏原南口駅 石川 石川橋
国道旧170号   道明寺東小学校  市野山古墳  惣社保育園 
府道12号(堺大和高田線)   道明寺東幼稚園  宮の南塚古墳  社会福祉法人好老会 
南河内サイクルライン 道明寺小学校  衣縫塚古墳  中国電線工業株式会社 
近畿日本鉄道南大阪線  道明寺中学校  国府遺跡   
近畿日本鉄道道明寺線  柏原市役所  大山咋神社    
土師ノ里駅 北條雨水ポンプ場 黒田神社  
柏原南口駅 藤井寺市船橋浄水場 志貴縣主神社  
大和川 学校給食センター 国府八幡神社  
石川 老人福祉センター松水苑 養源寺  
落堀川 市立第五保育所 宝城寺  
新大和橋 藤井寺市役所土師の里支所 了信寺  
河内橋 柏羽藤消防署藤井寺分署 潮音寺
石川橋 梅が園善徳保公園 蓮休寺 藤井寺市の地図
長池広場

校区の成り立ち 
        校区の昔の地図              校区の昔の村
校区の昔の地図    校区の昔の村
 1885年(明治18年)の測量によって陸軍参謀本部が作成した2万分の
1仮製地形図の一部で、西洋式作図法で最初に作られた藤井寺市周辺
 
の地図である。三角測量に基づかないで応急的に作成されたことから
仮製地形図といわれているが、それまでの絵地図的な古地図のことを
思えば、現代の地図にきわめて近いものとして、地形を調べる頼りに
することができる。
 正式な測量によって作成された地図で藤井寺市周辺のものは、明治
 「藤井寺市史第十巻史料編八上」掲載の「地籍集成図」に基
づいて作成したもので、白色の線と文字が昔の村の区分と名前
を表している。赤色の区切り線と名前は現在の地区の区分と名
前である。 市域境界線は現在のもので表しており、大和川の
中央にある境界線は、江戸期の「大和川の付け替え」以降に村
41年の測量によってでき上がる。以後、何度も改訂されて、現在の
土地理院
に引き継がれている。
 

江戸時代に近いすがた  まだ鉄道や現在の国道・府道がで
きていない頃の様子がよくわかります。江戸時代の終わり頃
とほとんど変わらない村々の姿を表している地図として、歴
史研究にとっては大変貴重な地図だと言ってよいでしょう。
地域の変化を調べることに、様々な手がかりを与えてくれて
います。
 集落の分布もはっきりしていて、集落の間をつなぐ道路の
ルートがよくわかります。現在は狭い間道として残っている
道や無くなってしまった道のあることもわかります。
 主要な街道が、東西では長尾街道、南北では東高野街道
あることもよくわかりまする。
 東高野街道は、国府八幡神社の所から東に向かい、現在の
道明寺東小学校前の道路を通って石川堤防上に出て、船橋村
から新大和橋を渡って大和川堤防を東に進むというルートが
はっきりと示されています。このルートは、江戸時代の終わ
り頃には一般的になっていたと思われます。
 市野山古墳は「允恭帝陵」と表示されています。左下に半
分ほど見えている古墳は、仲津山古墳(仲姫(なかつひめ)皇后
陵)
です。
 一番下に見える「天満宮」は、道明寺天満宮のことです。

鉄道ができる
  この地図の頃から十数年後には、石川に沿
うように鉄道が通ることになります。現在の近畿日本鉄道・
道明寺線
ですが、この線は現在走っている数ある近鉄の路線
の中で、最も歴史古い路線なのです。
 その後、大正13年には、現在の近鉄南大阪線が大阪阿部野
橋駅まで開通し、この地図の中には2本の鉄道が登場するこ
ととなります。

新しい道路ができる
  やがて昭和時代になると、産業振興
のために、自動車輸送に使える新たな幹線道路が産業道路と
して建設されます。 現在の国道旧170号で、昭和13年の完成
でした。
 この産業道路は、東高野街道に併走して新設されたり、元
の街道を拡幅整備したりして、ほぼ東高野街道のルートに沿
ったものでした。今日で言うところのバイパス道路です。
 さらに、戦後の昭和30年代初めには、長尾街道のルートに
沿ってバイパス道路が建設され、堺市の湾岸方面と奈良県地
方を東西に結ぶ重要な道路として利用されていきます。現在
府道12号・堺大和高田線です。
 以上のような地域の変化は、各時代の地図を比較すること
で浮かび上がってきます。「藤井寺市史第十巻史料編八上」
には、それらの地図や写真が収録してあり、市全体の変化を
見ることができます。
  どうしや自治体間で決められたものと思われるので、船橋村や
北條村の川側の本来の境界はよくわからない。なお、大和川と
石川の形は現在の堤防上の道路線で表している。



江戸期からの区割り 基になっている地籍図は、左の地
図の測量と同じ頃に各旧村で作られたもので江戸期の大
(あざ)・小字をほぼそのまま引き継いでいると思われます。
 旧村のうち船橋村北條村は、大和川の付け替えがお
こなわれたことによって、村地のかなりの部分が河床のた
めにつぶれ地となったことがわかります。幕府が付け替え
を最終的に決定するまで、この村々が他の村々と連合して
付け替え反対の願いを強く訴え続けたのもうなずけます。

地区の再編と新設
  明治の後半以降に建設されてきた鉄
道や現在の国道・府道を重ねてみると、当時の村と現在と
の違いがよくわかります。特に、国道(当時は府道)のできた
ことが、地区の区分の再編に大きく影響していることが見
て取れます。
 人口の増加による地区の分割・新設もおこなわれていま
す。もともと国府村の中の分村(小村)だった惣社地区が独
立した地区となり、昭和30年代後半に開発が進められた新
しい住宅地が梅が園として誕生しました。その後、新住居
表示の施行によって、惣社と国府には丁目区分が実施され
ました。

校区の誕生と変化
  道明寺東小学校区は、昭和42年4月
道明寺小学校から分離して開校した時は、 国道旧170号
から東側の区域すべてが校区となりました。
 昭和48年4月に道明寺南小学校が分離新設されたことで、
国府地区が分割されることになり、国府3丁目地区は、8
番地区だけが道明寺東小学校区に残り、他の部分は道明寺
南小学校区
となりました。これは、分離後の児童数のつり
合いを考慮して、校区の分割は近鉄線で区切るという方針
が決定されたことによります。
 こうして今日に至っていますが、校区の面積の内、河川
敷の部分がかなりの割合を占めているため、実際の居住地
面積は市内7小学校の中でも、最も小さい方です。
 なお、現在の地区名についてですが、藤井寺市では丁目
区分のある地区名は地名だけで、丁目区分の無い地区には
「町」を付けて表示しています。北條町・船橋町・梅が園
町に町が付いているのはこのためです。 

  空から見る道明寺東小学校区の様子 

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